C.E.75 14 Jan

Scene アプリリウスツー・ザラ邸

アプリリウス市第二区の都市部からほんの少し離れたところに、アスランが16歳までの二年間を過ごしたザラ邸があった。当時最高評議会議員だった父、パトリックの家ともなればそれなりに豪華な様相を呈している。閉鎖されて数年を経て、住む人間のいない屋敷はそれなりに寂れた感があったが、邸内の管理はアスランが生まれるより以前からザラ家に仕えていた執事が今もきちんとおこなっているとのことだった。
「おかえりなさいませ」
顧問弁護士から連絡がいっていたらしく、アスランは懐かしい顔に出迎えられる。
「ただいま。……すまなかった、今まで」
袂を分かってしまった父子に誰より心を痛めていた人だった。すでに面倒をみてもらっていた期間より、国を出奔して心配させていた期間のほうが長くなっている。そして数年ぶりに顔を合わせた今日は、別れを告げる日でもあった。

アスランは玄関から部屋をひとつひとつ回り、生活していた頃と変わらない様子に感慨深くすることもせず、置かれているものを確認して次から次へと整理した。事前に連絡しておいたにも関わらず、執事が何も片付けることなくそのままにしていたのは、あるいはアスランが懐かしさに思いとどまることを期待していたからかもしれなかった。
「書庫のなかは全部国営の図書館に寄贈してくれ。美術品の類いも同様に、美術館へ。……おまえが欲しいものがあれば、さきに持ち帰ってくれてかまわない」
ためらいもなく手放す指示しか残さない今の当主に、心の底では苛立ちもあるだろうに、と思う。それでも彼はアスランを手伝いながら、これまでの暮らしはどうか、今はどうか、といったことを訊ねて心配してくれた。
「そういえば10月に一度、お客様がいらっしゃいました」
風を通しに邸へくると、門の傍に佇む者がいたとのことだった。
「護衛の方を連れてらっしゃいましたし、メディアでお顔も知ったばかりの方でしたので」
ためらいなく声をかけた、という。
「………何か話したのか?」
「コペルニクスでのお話を、少し」
アスランを懐かしむ人に、優しい思い出話を選ぶのはいかにもキラらしい。
「…そうか…。…ひとこともいってなかったな、そんなこと」
「つぎはアスラン様と一緒においでになるといっておりましたのに」
執事がやっと非難めいたことを口にした。アスランはそれに微笑みだけを返した。
キラが一緒にきたがっていたのは知っている。それでもアスランははじめからここへはひとりでくるつもりだった。最後に住まったこの場所は、そこに家族がいた、ということがあまりにリアルだ。アスランのなかで父親のことも母親のことも、何も片付いてなどいない。キラはそうした心を敏感に悟って、自分を労ろうとしてくるはずなのだ。家を手放すという話にもいい顔はしなかった。今日のように感傷を押し込めて事務的に片す様子を見れば、怒りだしさえしかねない。
キラに触れられたくないわけではない。ただ、彼を悲しませずにここを訪れることは、アスランにはできそうにない、という話だった。
「一区で彼と一緒に住んでる。落ちついたら、ぜひきてくれ。キラも喜ぶから」
「はい」
同居人はほぼ不在だ。その落ちつく日がいったいいつのことなのか、と考えているのか、執事は苦笑しながらそう返事をした。

中はきれいに片付けられているとはいうものの、ヤキン・ドゥーエ戦役後には軍と政府の捜索は何度か入っていた。なかには乱暴な者もいたのだろう、傷のついた調度品や壊されて箱に詰められた装飾品の数々、アスランが一度でも邸内で見たことのない壁に押しつけられた足あとなどがいくつかあり、隠して固めている心にもわずかに痛みが走った。
ほとんど使われることのなかったレノアの私室に入れば、他の部屋よりはその痕跡をみることがなくて少しばかりほっとする。
「こちらを見られたら少しお休みください。わたくしはお茶のご用意をしてまいります」
執事が気を利かせてアスランをひとりにした。部屋の扉が閉じられるとしんとした静寂だけが残る。
レノアが亡くなったあとに一度だけ、パトリックがこの部屋に入ったことがあった。食事を摂ることもなく、何時間もひとり籠り続け、アスランの呼びかけに応えることもしなかった。いつも厳しい印象だけがあった父親の、それが最初で最後に見た人間らしい悲しみの姿だった。
今のアスランには、少しばかりパトリックの気持ちが判るような気がしている。手にしていたはずの愛しい者を打ち砕かれることへの悲憤は、自分も狂わせるかもしれないと疑えるくらいには。
───だが、あなたは世界を巻き込むべきではなかった。
短絡な復讐を世界に教育してしまったのだ。事実という歴史に残して。そして、アスラン自身にも。
世界にはまだ狂気とその火種がたくさん残っている。

アスランは頭を振って思考を強制終了した。時間がそれほどとれるわけではない。もとより一日で済ませるには無理のあることを、今日終わらせようとしてきているのだ。
なんとなく手を触れていた箱の中身に視線を落とす。机の上に置かれたそれは、母親の私物とおぼしき雑多なものが詰められている。そうであれば中身を確かめることなく、封をしてとりあえず持ち出してもよかったのだが、気落ちしたことを無意識に紛らわそうとしたのか、アスランはその中身に手をつけた。
当時レノアはユニウスへ単身赴任していたため、今ここにあるのは彼女の私物といっても生活に使ったものではない。見れば、学生時代の想い出の品のようだ。亡くなってから遺品に手をつけたことは今日までなかったので、アスランが見たことのないものばかりがその箱には入っていた。
そこからひとつを選んで手に取ったのはアルバムで、半永久電池が壊れてさえいなければ彼女の青春時代を覗き見ることができる。電源を入れてみるとそれは正常に起動した。

レノアはどこか大雑把なところがあり、物の整頓はあまり得意としていなかった。アスランが予想した通り、アルバムの中身はカメラからそのままごっそりとデータを移しただけのようで、タグやタイトルをつけて整理されていることもなかった。かろうじてデータの作成日付が、その写真が撮られた日を伝える。それらは、オーブの大学へ留学していた頃のもののようだった。
───そういえば、カリダさんと知り合ったのは留学時代だといっていた。
コペルニクスでキラとアスランが知り合ったとき、彼らの母たちはすでにともだちの風情だった。家の事情を知って避難する場所にコペルニクスを勧めたのもカリダであったと聞いたことがある。
そのうち状況が変化して、ある日唐突に、三日後にプラントへもどるということをいい渡された。確かにあの頃、すでに中立地域にも不穏な世界の空気が伝わっていたけれども、そこまで急ぐほどには切迫してもいなかった。キラとの別れを辛く思っていたアスランの心を知っていて何故そうまでして急いだのか、それはいまだに判らない。ただ単に、急かす父をめんどうに思ってのことだったのか。しかし、プラントへもどれば中立地域にすら連絡をとることが叶わなくなったので、それは正しい判断だったのかもしれない。
アスランはアルバムを手にしたままぱちぱちとページをめくるボタンを押し、なんということもなく写真を眺めた。眺めるというよりも流すといっためくり方だが、その手がふいに止まる。
「この人は…」
ほとんど一秒以下の速さでめくっていた手を止めたその写真。そこに、よく知った顔を見たと思ったからだった。
ランプブラックのさらさらとした髪、柔らかな微笑み。けれどどこか無邪気そうな。大学の棟を背景に、レノアを含む数人の学生たちの中にその姿があった。歳の頃が今の彼と近いせいかもしれない。アスランが以前別の写真で見た彼女より、ずっと、キラに似ている、と思った。
「……ヴィア・ヒビキ…」
よく考えてみれば、カリダとレノアが大学で知り合ったはずがない。レノアはスキップしていた。彼女がオーブにいた頃、カリダはハイスクールで、それにふつうに公立の大学へ進んだと聞いている。同級でも同窓でもあったはずがない。だが、ヴィアなら───。
GARM R&D社の研究員だった彼女であれば、ナチュラルの中でも優秀な人物だったはずだ。高度な遺伝子研究で有名なオーブの大学に在籍していたとしてもまったくおかしくはない。
「………………」
アスランは突然知った事実にしばらく呆然とした。
だが、別に驚くほどのことではない。ヴィアを通じて、カリダとレノアが知り合ったのだとすれば辻褄は合う。だが、アスランがいま感じているショックは、自分の母親がヴィアを見知っていたという事実にだった。
「……だが……それだけのこと…だ…」
つぶやいて、アスランはいい知れぬ不安を打ち消そうとする。何故そこに不安があるのかすら、判らない。隠された扉はまだある、と、耳元で誰かに囁かれたような気がした。