Evergreen Interlude


C.E.74 25 Jul

Scene オノゴロ島・ヤヒロ公園

「…そう、いかないか。次の休み」
「…………………………映画?」
「映画」
キラは驚きに開いた口を意識して閉じた。アスランは基本的に映画やドラマを好んで見ない。つまりフィクションに興味がない。少なくともキラが知っている範囲でいえば、目の前の彼が最後に映画鑑賞したのは幼年期にキラが無理やり誘ったときのそれではないかと思う。キラは映画が好きで、子供のころはそれこそ無遠慮にアスランを誘っていたものだが。
「……何か、観たいのでもあるわけ」
「いや、とくには」
即答にキラは誘った相手を不審げにみつめた。
「キラは何かないのか」
「ていうか。なんで?」
「なんで? …か、って…」
陽気な昼のラウンジだった。互いの時間を調整して待ち合わせた昼食を終え、余人を避けるようにして窓際のカフェ席に移動したアスランが、急に切りだした話だった。
「───キラは…映画が好きだったろう」
「そうだけど。アスランはそんなでもないでしょ」
「…まぁ、そうだな」
「じゃあなんで映画」
キラはテーブルに身を乗り出して、無意味に視線を逸らし気味な彼の顔を覗き込んだ。ちらりとアスランの視線があがる。
「映画じゃなくてもいいんだ。どこでも。ふたりで出かけたいと思っただけのことで…」
「─────」
公共の場所ともいえる職場のラウンジで突然何をいいだすのか。最近は、多忙な彼とこの昼食の時間くらいしかゆっくり話をする機会がないことは事実だ。だからといってメールで伝えるなり、帰る家は同じなのだから部屋にメモを残すなり、他の手段もあろうかと。
キラは熱くなりかける頬をごまかすようにふっと鼻から息を抜いて、乗りだしていた身体を引っ込めた。
「それってつまりデートかな」
「そんないい方……」
問えば慌てたようにそんな声があがりかける。が、そのすぐあとに「そうだな」といい直して認めた。
「もっとふつーに誘ってよ。変じゃない、ぼくときみのあいだで今更」
「………わるかった」
互いの気持ちを正しく認め合って二週間にもなろうかという頃だった。ふつうのカップルなら休日にデートの約束くらいはあたりまえのことだろう。だが彼らは、その以前から意識してふたりで過ごそうとしてきた。そのうえ年季もはいっている。そこへ改まって───要するに「ふたりでいたい」といわれ、キラはその態度とうらはらに高まる心臓の音を隠すのに必死になった。

当のアスランはそれ以後、まるで忘れたかのように当日の予定などを話してくることがなかった。キラの予定を押さえることだけをして、あとはその日適当に決めればいいという横着なのかもしれない。アスランは幼年学校の時代から、キラとの遊びにあまり計画をたてることはしなかった。つまり「キラと遊ぶ」ことが目的で、それがあればその内容はなんでもいいらしい。変なところに大雑把な彼の一面だ。誘うのはアスランでも、でかける先を決めたりするのはいつもキラだった。もちろん、その当時は遊びたいことなど山ほどあったから、アスランの無計画を困るどころか、キラに決めさせてくれて嬉しいくらいに思っていたかもしれない。
「だからって上映リストくらいはふつー調べておくよね! いいだしっぺなんだから!」
前日の夜になって、アスランが今上映中のラインアップをまったく知らないことが発覚した。
「そりゃ子供のときはいつでもなんでも見たいものばっかりだったけどさ。この歳になって、それなりに好みも固まってるし選択の幅も狭くなってることくらい判りそうなのに、なんかあるだろ、で終わらせるなんてさ」
「すまない」
「ぜんぜんすまないって顔してない。きみ相手が女の子だったらぜったい三日で振られる」
「……………」
結局、無理やり映画を見る理由はどこにもなかろうとのキラの判断で、オノゴロの中央駅に隣接するショッピングモールをふらつく流れになった。その間キラはアスランの段取りのわるさを非難し続ける。ぶつぶつとこぼすキラに返事はするものの、果たして反省しているものかどうか。立ち寄ったDIY店で、彼の視線は手元の螺子だ。それからキラの肩に乗るトリィに移り止まった。今、アスランの頭の中ではトリィの内部設計が展開しているのだろう。
「ついでに脚部のバージョンアップをしてやろうか?」
「今のままで充分だよ。別に足がヨワくて転がるわけでもないし」
磨耗してきたトリィの足のパーツを、近々アスランに交換してもらう予定だ。もちろんその程度のメンテナンスはキラが自分でできることだが、再会してからというものアスランが譲ろうとしなかった。それが独占欲のひとつの表れなのだと知ったのは、ごく最近のことだったが。
「次にいくところはちゃんと決めてある」
「それ、今思いついたんじゃないの」
いい訳めいたことを告げたアスランをキラは訝しんだが、彼は笑って「違うよ」といった。
モール内のレストランで昼食を済ませると、メトロでひとつ隣の駅へとアスランの案内で移動した。そこも駅周辺は店が多く、だいぶ賑やかな場所だ。人混みのなか、アスランは背後からキラを覆うようにしながら縫って進む。道を知らないキラは後ろから「そこ右。その店のさきの道で左」などと方向を指示されて、彼が先にたって手を引けばいいのにと思う。そう思ってすぐ、人前で手を繋ぐつもりか、と自分の考えを却下した。
その直後、小さな子供がすぐ前を横切りキラは咄嗟に足を止めた。それが視界に入らなかったアスランは止まれず、キラの背中に彼の胸がぶつかる。振動でトリィが一瞬羽ばたいてキラの肩から離れた。
───あ、そうか。
キラを抱きとめるようにして静止したアスランは、再び歩き始めないキラを訝しんで声をかけてきた。
「キラ?」
「あ、うん。ごめん」
アスランの胸の弾力とは別に背中の左側に当たった硬いモノ。護衛を断った外出で、今日彼は懐に自動拳銃を忍ばせている。キラの気がつかないところで、あたりまえのようにそれを装備して、混雑した道の真中で、人にぶつかることではなく、もっと危険なものからキラを護ろうとしてくれている。「ふたりでデート」というのはキラが想像するよりもっといつもどおりではないことなのだと思った。

オーブ群島はどこへいっても日差しが強い。しかし、からりとしているので不快な暑さではなく、とくに気候が安定しているこの時期は急に雨が降りだす心配もない。絶好の散歩日和ということだ。見れば、訪れたこのヤヒロ公園もかなりの人がいる。
駅前の雑踏からはほんの数分で離れ、アスランがキラを連れてきたのはオノゴロ島の有名な公園だった。一・五キロ四方の広大な公園にいる人々は、園内のイベントごとに参加するファミリーと、格好のデートコースにと選んだカップルがほぼであるといえた。いいかげんにしてるかと思えば、それなりにデートらしい場所を用意したあたり、アスランはいうほど朴念仁でもない。少しは成長したということか。
広くなった空間で、早速トリィがふたりから離れて上空で遊び始めた。見つけた子供たちが歓声をあげてそれを追いかけている。その様子を眺めながらふたりは並んで遊歩道を歩いた。
「ほんとうに広いんだな、ここ。初めてきたよ。キラは?」
「うん。ぼくもかな」
「…少し休むか?」
アスランは足を止め、わざわざキラを向き直ってそういった。
「どっちでもいいけど。そういえば喉は渇いたな」
判った、と彼は微笑む。そこからそう遠くない場所にあったスタンドで飲み物を購入し、さらに少し進んだ先の木陰に並んで座った。ふたりが落ち着くとトリィも旋回をやめて、いつものようにキラの肩にもどってくる。追いかけていた子供たちは彼らの五メートルほど先で足を止め、照れたようにキラに笑いかけてから家族たちの元へ去っていった。そうして人影がすべて遠ざかり、そこはふたりきりで寛げる空間になっていた。

「なんで急に思い立ったの」
キラは今日のことを問うたが、ふつうにはことばの足りない質問ではあった。だがアスランは通じた様子を見せて、しかし、「退屈か?」とはぐらかすように問い返してくる。
「そんなことないよ。ここも緑がたくさんで気持ちいいし。やっぱり空気が違う気するよね」
そうだな、と応えてアスランが手にしたアイスコーヒーをひとくち飲んだ。そのまま視線は、目の前に広がる芝生のさきにある遠くの木々に移ったようだった。
「必要だと思ったんだ」
「え?」
キラの質問を唐突に返してきたのだと気がつくのに、少しの時間が要った。
「おまえも、このままじゃだめだろうと…そんなふうに思ってたんじゃないのか?」
そういってアスランははにかむように笑い、視線を落とした。あまり見ることのない表情だった。
このままではいたくない、と。確かに行動を起こしたのはキラだった。だが、それからのことはどうだろう?
アスランとは、心を通じ合わせて以来、その距離感も態度も会話も決して変わることがなかった。そんなに急に、関係が変わるとは───想像もしてはいなかったが、こうも相変わらずだとそのときのことが夢か幻かという気にもなってくる。どこかその状態にあまんじている自分もいるような気がして、それなりに頑張ってみた過去をそのままから騒ぎで終わらせていいのだろうかと、ほんの少しだが、焦る気持ちは確かにあった。
職場はもちろん、プライベートな帰宅後の時間も家族が一緒の生活だ。あまりおかしな雰囲気を持ち込むわけにもいかない。無意識にしても、そういうセーブがふだんからかかってはいるのだから、変化がないのはあたりまえかもしれない。そこをあえて、ということで、あらたまって“デート”なのだろう、と。
「べつに急いでどうこうというんじゃないんだ。ただ、また───キラを待たせたままでいるんじゃないかと思ったら、少し…焦ってしまって」
訥々と語るアスランの横顔を黙って見つめていると、彼は今度はこちらを向き、自嘲気味に告げる。
「……もう、なかったことにされていたら、どうしよう、とか」
キラは目を瞬かせ、何をいうのかと怒った。
「んなわけないじゃない。ぼくがどれだけ忍耐強いと思ってるの」
「さぁ? おれが知ってるのは、二十分も課題の工作が続かないキラとか、そんなのばっかりだったしな」
また子供の頃の話なんか持ちだして、と拗ねて唇を尖らせると、アスランは朗らかに笑いながら自然にキラの肩を抱き寄せる。
高い日の空の下。広い視界から人目は遠いけれど少しためらう。軽く彼を押してみたが、それで放そうとはしない。キラ、と、逆に咎めるような囁きがあってますます引き寄せられた。
覗いた彼の瞳は傷ついているように、見えた。それに脅されて、キラは白状させられる。
「────三年、だよ」
長かった片思いの年月。
キラのことばに、アスランは問うように首を傾げた。
「三年は待ってたんだからね」
「……そうか」
わずかな微笑みに少しの痛みを滲ませ細められた目。ごめん、と呟くように動いた唇が見えて、キラは近づいてくるアスランの濃くて豊かな睫毛を見た。隠れるのが早かった緑石の瞳を惜しんで、キラは瞼を下ろすことをしばらくためらっていたが、飲料で冷えた唇が温もりで包まれるとそれも諦めた。
慈しむように丁寧な口づけだった。穏やかな彼の気持ちが伝わってくる。心地よくて嬉しくて、キラは彼との間に挟まれていた手でアスランの腿を撫でた。それに一瞬だけ離れた唇が、もう一度触れてくる。彼の足に置いた手には、彼の指が絡んでいた。


C.E.74 12 Aug

Scene ヤマト家・ダイニングキッチン

「───あら…」

さすがにこの頃は親に起こされてという朝がなくなってはいた。しかし、ときおり寝坊をしてしまうのは、子供だ大人だというよりも仕方のないことだ。朝を寝過ごしてしまうのは身体が睡眠を要求しているからであって、仕事のためにふだんから睡眠時間が足りていないことは、カリダにはよく判っている。
だからキラが寝坊することはごくたまにだがあって、その日も決まった時間にダイニングに現れなかった息子を、支度に慌てないくらいの時間はみて起こしにいった。一応部屋のドアをノックして声をかけ、返事は待たずに扉を開けてから思わず固まった。
どうにも、相変わらずなのね、と以前ならこぼしたであろう微笑みはうかんではこず、ただ目を瞠った。
「……おはよ…」
キラはカリダの気配、もしくはノックか呼ばれた声に目が覚めたようで、いいながらむくりと半身を起こした。大きく欠伸をひとつしながら傍らに一瞬視線を落として、「し」とカリダに指し示す。つまり、アスランを起こさないように、静かに、ということだ。
キラは起きたのだから目的は達している。カリダはひとつだけ頷いて先にダイニングへと降りていった。

カリダはアスランに対して起きる時間を気にしたことがない。今の職務上で時間が不定期になりがちだったこともあるが、彼は子供の頃から自身の管理はしっかりできていて、むしろそれで一緒にキラの面倒も見てもらっていたくらいだ。
出勤のスケジュールはいつも事前に判るものは伝えてもらっている。予定通りではなく起きてこないのなら、その日は急な休みが入ったか、午後出勤のシフトになったかなどの理由がある。とにかくアスランに関しては、気にかける必要がないのだ。
それもあって、こうして同じ家で過ごすようになってから、彼のああいった──熟睡した姿を見たのは初めてのことだった。もちろん、それをもうひとりの息子の部屋で見ることなども、想像したことすらなかった。
キラは寝間着のまますぐに降りてきた。カリダは朝食をテーブルにならべながら、どうきりだそうかを迷った。だが結局、そのまま訊ねることにする。
「あなたたち、ゆうべ一緒に寝たの?」
「…え?……うん。……ふぁ…アスランがもぐりこんできた」
まだ眠いのか、キラは途中で欠伸をはさんだ。
「……あなたが頼んだんじゃなくて?」
「アスランのほうが甘えるときだってあるよ」
ご飯を盛った椀をキラのまえに差し出すと、いわれたことに不満があったのか憮然としながら箸をとってそういった。
この場合、どちらがどうでもカリダは気にならない。気になるのは、もう成人した年齢の子供らがそうやっていまだに互いのベッドに潜り込んでいるということだ。そんなことはまったく知らなかったし、実際、戦争をはさんでからはそんな様子を一度も目にしたことはなかった。
「アスランくん、ゆうべは何時頃だったの?」
「3時過ぎてたかな…今日は午後からみたいだから、お昼まで起こさないであげて」
「あら、そう。大変ね」
どこかずれた返事になってしまったのは仕方がない。キラは母親がいつものように天然を披露していると思ったのか、小さくため息を吐いただけで食事を続けた。

「…おはようございます」
キラが食後のお茶をすすっているのにつきあっていると、アスランが起きてきた。キラのように寝間着ではなく、いつも通りきっちりと制服を着込んでいる。
「あら、おはよう。今日は午後からでいいんじゃないの?」
「え?」
アスランは一瞬不思議そうな表情をし、自身に背を向けて座っているキラをちらりと見た。カリダが知らないはずの予定をキラが伝えたことを理解したのだろう。少し笑って、でも目が覚めてしまったので、と返事をした。
「いいならゆっくりすればいいのに。真面目なのねぇ。…ご飯、用意するわね」
「すみません」
カリダはいいながらキッチンへと立った。その後ろでアスランがダイニングテーブルの定位置につく気配が伝わった。

「……おはよう、キラ」
「おはよ」
「………ゆうべはすまなかった」
「なにが」
「なにがって……その…」

テーブルとシンクの距離はそうあるものでもない。小声で交わす会話はもちろんすべて耳に入ってくる。彼らもそれは判っているだろう。アスランがカリダを気にしながら話している雰囲気を感じる。
だが、こうして“ふたりで”している会話には、聞こえていないふりをしてあげるのが幼少の頃からの不文律だ。
「…夜中に起こしたし…………狭かっただろうし」
「べつにいいよ」
疲れて甘えてきたという相手に冷たくもそっけない返しをキラが続けている。もっと優しくしてあげられないの、と心の中でそっと思うが、それは無用だったようだ。
「アスランこそ腕しびれてない?」
「…………いや……」
態度が適当なのは単にまだ眠いだけだったかららしく、キラはおさまっていたはずの欠伸をそこでまたひとつした。すかさず「ごめん」とアスランが重ねて謝っている。
「ほら、あんたはそろそろ支度しちゃいなさいよ」
アスランの食事をテーブルに運び、キラには声をかける。「んあーい」というやる気のない返事がもどってきたが、キラはすぐに席を立って自室へ着替えにもどっていった。
「いただきます」
「どうぞ、めしあがれ」
キラよりも帰宅が遅く、ふつうに考えても激務をこなしているはずの彼は、キラとは正反対にきっちりとした様子で眠気のひとつももう残してはいない。レノアは本当によくできた息子を育てたものだ。半分はカリダが育てたようなところもあるが、これはもう血筋と、おおよその性格が定まるという三歳までの教育の所以に違いない。
だが、そうしていつも見せる彼の“しっかり者”な様子に、母心としては少し寂しく感じるところもある。
───キラにはなんだか甘えてるみたいなのにねぇ。
ここ一ヶ月のあいだで、アスランはキラに甘えることが多くなっているとカリダには感じるところがあった。何がどうというのではなく、ふとしたふたりの会話や態度、その最たるものが今朝見たことだった。
この頃までどこかにあったアスランの遠慮のようなものが取り払われて、キラとの距離を一層近くに感じるのだ。マルキオの元で過ごしていた頃の、いつまでもぎくしゃくとした空気はもうふたりのどこにも残ってはおらず、コペルニクスで過ごしていた頃のように、あるいはそれ以上に。いい歳をして距離が近すぎると思わなくもないが、あの頃の彼らを見るよりはずっといい。
「ずいぶん忙しそうね?」
「…いつも遅くて、すみません」
「あら、こっちは遠慮せずにさきに寝ちゃってるもの。それより無理は重ねないようにしてちょうだいね」
アスランにお茶を提供しながら話しかけてみるが、カリダに疲れを見せることはしない。いや、事実充電ができたのかもしれない。素直に「はい」と返事をした顔は無理がなくすっきりとしていた。
「少しくらいキラに押しつけちゃえばいいのよ」
「職分が違いますし、それに…キラに無理をさせるほうが、おれには……」
天性からの保護者気分に変わりはないらしい。キラがベッドで起き上がったときに垣間見えた彼の体勢やさきほどの会話で判ったが、どうやら甘えたほうが腕枕を提供してもいたようだし、「兄」「弟」のポジションに逆転はないのだと思った。
アスランがいいかけて止めたことに微笑みで返すと、彼はどこか照れたように微笑んだ。その笑顔にだけは少しばかりの幼さが見えた。

結局ふたりそろって出勤することになり、その背中を玄関で見送った。それから台所を片付け、ゆうべは使われることのなかったアスランの布団と、ふたり分の眠りを支えたキラの布団をベランダで干す。
子供たちが歳を重ねるごとにつのる寂しさは、置いていかれるような気分からなのだといつか主婦仲間とこぼした。とうに離れてしまっている彼らが、それでも自分の傍で生活してくれていることにはとても感謝している。
「べつに置いてかれても、母さん平気なんだから」
晴れ渡る空にむかってつぶやく。いつか彼らに直接、そう強がりをいってあげたい。
いつのまにか甘えるほうになっていた自分を励まして、カリダは遠くない将来へ備えることにした。


C.E.74 12 Sep

Scene アカツキ島・孤児院近くの浜辺

鼓動が激しく高鳴っていたのは、全力で走っていたからではない。
───不安。
それがアスランの心臓を早鐘のように打っていた。
いるべき部屋にキラがいなかった。それだけで。心が激しく乱れていた。それなのに頭のなかはしっかりと働き、目を離した時間からそう遠くへは行っていないことをすぐに判断すると、まもなく見つけた砂浜の足跡を追い、波打ち際に立つキラの姿へとたどりついた。
「キラ!」
彼の腕を捕らえる瞬間まで声をだすこともできなかった。見失っていた時間はほんの十数分だっただろうに。おかげでキラを驚かせて、怯えさせた。
突然に後ろから強く腕を引かれたキラは、それまでの日々で見せていた反応の薄さを忘れたかのように、激しい抵抗を見せた。

───この浜辺にはいい思い出がない。

その記憶の多くを占めているのが、キラが忘我して、アスランがつくす手もなく過ごしていた頃のことだった。キラに誘われなければこの海辺で沈む夕日を眺めようなどということを考えもしなかっただろう。
さきほど辞した孤児院での喧噪がまだ耳に残っている。楽しかった時間を早めに切り上げ、キラがこの浜辺にきたがった理由は判らない。

再建が終わったマルキオの孤児院へ遊びにいこうと提案したのはアスランのほうだった。キラはまもなくプラントへ発つのだからそのまえに、と。子供たちにはとりたててキラがプラントへ行ってしまうことを告げなかった。ラクスも離れ、ついでキラとあっては皆が不安がるかもしれないと思ってのことだった。折りをみて、いずれマルキオが話をするのかもしれない。キラのゆく先はプラントではなく、さらにその先にあるのだということを。
そっと覗き見たキラの横顔は夕映えに染まっていた。その暖かい色に似た穏やかな微笑を口の端にのせて、視線をずっと海にそそいでいる。
だが、果てがない先を見つめるその瞳は、アスランにあの頃の不安を思い出させた。
「ここにくるといろんなこと考えたな」
キラがぽつりと呟くのをアスランは聞き流した。たった数年前の記憶から自分自身を呼びもどすのに少しの時間が要ったからだ。それほどまでに辛かったのか、とアスランは自嘲する。
今、横に立つキラは当時の様子をかけらも残してはいない。その安心がなければ、あのときのように無理やりキラの手を引いてこの場所から去ろうとしていただろう。
海に視線を投げたまま、キラはかまわず続けた。
「あの頃一生懸命考えてたのは、きみがいなくても生きていけるようにしようってことだった」
はたしてキラのいう“あの頃”は、今アスランが回想していた“あの頃”のことなのだろうか。疑問に思う必要はない。黙して語らずにいるとき、同じことを考えていることがアスランとキラにはよくあった。
だが、“あの頃のアスラン”は。キラがいない世界に生きることを、ほんの一ミリも考える余裕などなかったのではないか。キラを護るつもりでいながら、誰よりもキラに縋っていた時期だった。さぞや疎ましかっただろうと思う。
沈み込むアスランが視線を少しあげると、キラがそれを待っていたかのように次のことばを繋いだ。
「でも、きみがいないと生きていけないんだって判ったのもここでだったよ」
そういって、照れたように少し俯いた。
恋を知った瞬間の話はそのまま最初の告白を受けているようでもあって───アスランはにわかに胸が熱くなる。
この浜辺へきて条件反射のようにふつふつと湧いた不安が、ふっと消えていくようだった。
キラの話はまだ終わらなかった。
「きみがいなくても…なんて考えること自体、きみに依存してたってことだよね」
そういってアスランを振り返ったキラは何かを求める瞳をしていた。
片腕を伸ばしてキラを抱きよせると、彼は身動いでそれを拒んだ。それを許さないように腕の力を強くしてさらに抱きしめるとおとなしくなったが、押さえた肩はくつくつと震えていた。楽しそうに笑う声も聞こえてくるので、アスランは嬉しくなる。
「…アスラン……放してよ…」
「だめだ」
キラを包むこの腕と身体と、その心が、なくなる日はありはしないのだから、思う存分に欲しがればいいと彼に教えてやりたかった。
「ねぇほんとに…! 迎えがきちゃうよ」
「もうきてるぞ」
いって投げかけた視線の先の高台には護衛官の車が停まっていてた。実は数分もまえからそこにいることにアスランは気がついていたが、約束した迎えの時間にはまだ早かった。キラだけを乗せて去る予定など、早めてなんの得にもなりはしない。
「───いってよ、アスラン!」
腕の中のキラが暴れだした。拘束を緩めながら笑って「今いっただろ」といえば、どんどんと両肩を両手で小突かれる。押された勢いがあまってアスランが後へよろけると、今度は慌ててその手を引いてくれた。引かれるままキラに体重を乗せかけて、抱きついて、また突き飛ばされて、約束した時間がきてもしばらくふたりでふざけあっていた。
キラもアスランと離れたくないと思っているのだろう。キラはこれからヤマト家にもどり、アスランは軍本部での仕事が待っている。明日はアスランもヤマト家へ行くのだが、たった半日の別れを引き延ばしてしまうのは、そのあとに長い別れも控えていることを知っているからだ。
「ぼくも軍にいこうかな」
「週末の団欒を決めたのはおまえだろう」
「そうだけど。アスランが一緒じゃないんだから約束を守ることにもならないし」
週末は必ずヤマトの家に帰ると決めていた。それはキラがアスランのいる官舎に移ってからも有効な話だった。
「ぐずるな」
アスランは呆れたように少し微笑み、彼の髪をさらりと撫でた。キラがわざとらしく唇を尖らせる。
キラを独り占めしたい気持ちは充分あったが、彼がプラントへいけばアスラン以上に会う機会をなくす彼の両親との時間を奪う気も、もちろんありはしなかった。ほら、と拗ねた気配を隠さないキラの片手を引いて車のほうへと向かう。その途中で手は振りほどかれたが、キラはおとなしくアスランのあとをついてきた。
浜と高台の車道をつなぐ階段をあがりきったところで護衛官が車を降り後部ドアを開いてキラを待つ。アスランは何気なく護衛官の様子を視認しながらキラを導いた。今日の護衛はキラを担当することが多いナカザワひとりのようだった。
「ごくろうさまです」
「頼む」
ドアの横に立ったところで佇んでいたナカザワにそれぞれがことばをかけると、彼は会釈して応え車を廻り運転席のドアへと向かった。
「じゃあ、キラ」
「…ん」
不機嫌をめいっぱいアピールするように、キラはアスランの顔を見ることなく返事をする。
ふいに、寂しさを滲ませるキラの気持ちがアスランに伝染ったようだった。別れ際にそんな顔を見せられれば仕方がないだろう、と思う。
俯いたまま車に乗り込もうとするキラの肩を引き止めるように軽く手で押さえる。疑問を発しようとこちらを向いたキラの唇に自分のそれを一瞬だけ合わせた。ちゅ、と軽い音をたてて離れると、キラの瞳がみるみる見開かれていく。
「また明日」
微笑んでそういえば、今度は口のほうがぽかりと開いた。
「………ア……ッ」
非難が始まるまえにとキラを車のなかに押し込むと、同時にナカザワがエンジンをスタートさせる。彼はこちらのしていることなど気にしないだろうが、キラが嫌がるのは知っていた。閉じたドアの、見難いスモークガラスの向こうでキラが声なく「莫迦」といっているのが見える。アスランがそれに応えて手を振ると、キラを乗せた車はゆっくりと動きはじめた。


C.E.74 26 Sep

Scene オーブ軍官舎・1102号室

首筋に残した刻印が、今日はもう消えていた。
よくよく見れば、まだ微かに痕は残っているのかもしれないが、今ふたりが座っているこの距離では見えていない。アスランは毎朝ダイニングテーブルで向かいあったときに、キラのそこを確認する癖がついていた。
「最近、プラントのニュースは通信状況わるいね。今の半分くらい何いってんのか、判んなかった」
キラは五日後、プラントへいく。
こんなふうになんてことのない会話を毎日することは当分できないだろう。また、そんな毎日がもどる可能性すら、あるか判らない。アスランは不安や寂しさをそれほど感じているわけではなかった。ただ、胸を詰まらせる切なさだけが、それを思うとあるというだけで。
だが、それだけのこと、とはいえない。
切なくて、たまらなくなって、キラを抱いたのが、四日前。

「アスラン」
「──え?」

少しばかり自分の考えに没頭していた。キラは返事のないことに「座ったまま寝てるんじゃないだろうね」といって笑っている。その笑顔につられてアスランは自分の頬も緩むのが判った。
「起きてるよ。キラ、今日は?」
「あー…。遅くない。たぶん。アスランは?」
「おれも。たぶん」
同じ宿舎で寝起きするようになってから、すぐにふたりの生活リズムができた。朝はこうして互いの帰宅時間を訊ねる。おおむね予定通りにならないので必ず「たぶん」がつく。
「どちらも早いなら帰りは一緒に買い物へいくか。…そろそろ」
「うん、そうだね。リストたまってる」
キラは冷蔵庫に貼ってある買い物リストのメモを取り、アスランに渡した。

いつものように、ふたりで歩いて軍までいく。ほんの十分くらいの距離だ。子供の頃も、ふたりはこうして学校に通った。くだらないことを話しながら。今も変わらない。
仕事が終わり、正門で待ち合わせて一緒に帰る。寄り道で買い物をして。それも子供の頃と同じだ。寄り道の先が違うだけで。
昔とは明らかに変わってしまった関係だけが、浮いているように思えた。
───キラを、もっと抱きたい。
それは、恋人を相手に感じるあたりまえの欲求だった。アスランは決して淡白なほうではない。ふたりきりでいる時間もこんなにあって、想いも通じていて、それなのに、まだ一度抱いたきり。
アスランは戸惑っていた。
ただのともだちでいた期間が長過ぎたということだろう。正直にいって、手を出し難い。おまけにキラは快活な男子で、その健康的な雰囲気がいつも自分の不健康な気持ちを萎えさせる。というか、後ろめたくさせる。いっそキラのほうから誘ってくれないかとすら思う腑甲斐なさだが、一方の彼は淡白に見えて、「一緒にいられればそれだけで倖せ」などといい出しそうな感じがする。
気の毒なのは、アスランは悩み事をひとりで抱え込む癖があり、何事においてもひとりでなんとかしようと、カガリ曰くハツカネズミになってしまうことだった。誰か…例えばこういった色恋事では先輩の、ムウ・ラ・フラガあたりに相手をぼやかして訊くくらいの機転があれば、ひとこと「考えるな」といわれて、解決するようなことではあるのだが。

先にお風呂をもらったアスランは、キラを待つあいだリビングでハロを造っていた。
これは、ラクスのプラント帰還記念ハロだ。設計の構想はずいぶんまえにできあがっていたが、忙しさにかまけていたら完全に渡す機会を逸してしまった。キラをプラントまで送るときに彼女には会えるだろうから、それまでに仕上げようと考えていたのだが、どうも作業に身が入らない。だが、どうせ自分がプラントへ渡ったあとに、いくらでも機会はあることだ。
「………………」
そう思うと途端にやる気をなくして、アスランは手を止めた。
「ハロだ」
「…ああ」
タイミングを同じくしてキラがバスルームからもどってきた。フェイスタオルを頭にかけて、アスランが座るソファの横へ同じように座る。その頭はきちんと拭かれていないのが常だが、さきほどは珍しくドライヤーをかける音が聞こえていた。アスランはタオルを避けて、キラの髪に手を入れた。
「まだ生乾き」
「いいんだよ。あとは自然乾燥で」
キラはひとり暮らしをしたことがない。プラントへいけば、当然個室を充てがわれるだろう。生活の面倒を自身できちんと見られるのかが───。
「心配だ」
「何が?」
「キラに人間の生活ができるのかどうかが」
「………………」
キラは手にしていたハロをことりと静かに置いて視線を落とす。頭にかかったままのタオルのせいでその表情が見えない。
「ぼく、きみが思うほど子供じゃないよ」
声色が静かだった。
怒っている様子は感じないが、不愉快ではあったかもしれない。
「そうか。わるかった」
アスランの声に顔があがった。その動きで渇いた毛先が微かに揺れる。キラは感情の読めない表情をしていた。
「髪、伸びたな。プラントいくまえに切ってこいよ」
「──うん」
詫びておきながらかまいつけることをアスランがいっても、キラは気にするふうもなく素直に頷いた。これはもう、昔からの癖だから仕方がない。彼もそう理解しているのだ。今もきちんと留められていない寝間着のボタンが視界に入り、気になってつい手を出す。
「風邪ひかないように気をつけないと…」
留めようとした手元に視線を落とすと、ふいにキラの首筋のあの位置が、目に入った。やはり至近距離で見ると微かにまだ痕が残っていた。アスランはボタンをかける手を止める。
「………………」
「…え、…何?」
口の中で何かをつぶやいたアスランに訝しげな視線をキラがよこしてきたが、彼は応えずにソファの背もたれに腕をまわし、キラの肩を引き寄せた。

顔を近づけて、そのまま身動ぎしないキラの唇を軽く吸い、なぞるように舐める。風呂あがりで水分を含んだその唇はいつもより柔らかい。
アスランの舌の動きに少し開いたそこからは、小さい、吐息がこぼれた。
───目を、閉じろよ…。
相手の表情も読めない距離で、キラはまだ目を開けている。アスランは早く目を閉じるほうなので今まで気がつきもしなかったが。
「…おまえ、いつも、そんなか?」
「……え?」
訪れると思っていたくちづけの代わりにやってきたのがそんな質問だったからか、キラは一瞬呆然とする。
「何?」
「目が開いてる。キスするとき、いつもなのか」
「……きみが閉じないからだよ、今のは」
おれが?といいながら、肩を抱くのとは反対の手を、キラの腰にまわす。
「……そうだよ…」
返事をするその声がわずかに小さくなったのは、腰にまわした手が欲望の動きを示したからだろう。
「…きみの瞳…が…きれいだから」
少しあがった息が声を途切れさせている。まだそれほど強い刺激を与えているわけでもないのに。
アスランは面白がって寝間着に潜らせた掌で脇腹を直接撫でた。そうするとキラは完全に一度喉をつまらせて、遊んでいたアスランの手を掴み引きはがした。
「…せっかく近くで見てるのに。もったいないと思って。そう、思わない?」
懲りずにキラの寝間着のまえを開けながら、アスランはくすりと笑った。
「おれにそう、いわれてもな」
きれいと褒められた瞳を閉じ、今度こそキラと唇を合わせ舌を挿し入れた。深く繋がるために身を乗り出して、キラが逃げないように頭を支える。バランスをくずしたキラはソファの背もたれに手をあててそれを凌いだ。そのあいだも絡ませた舌の動きで、小さな喉声が漏れて聞こえてくる。
くちづけたままさらに覆いかぶさり、ソファのうえで押し倒す形になった。すでに素肌を触れる手は忙しなくなっていて、キラの内股にまで届いている。優しく撫でると、全身が泡立つのが伝わった。
唇を少し離して舌だけを残し、そうしてキラの舌を舌で誘い自分の口腔に招き入れる。強く吸って柔らかく歯を立てると、キラは切ない呻きを喉に響かせた。その音がもっと欲しくてつい激しくなる。
「………ん…ぁ……」
ときおり唇を離して、忘れているらしい息継ぎを思い出させると、そのたびにキラの甘さが増した。肩にしがみついている手の平からしっとりとした熱も伝わってくる。その熱さに、待ってくれていた──と考えるのは穿ち過ぎか。こちらのためらいを知って、踏み出すまで待っていたのだと。
しばらくして、長くなってしまったくちづけを止めて顔を離しキラを見おろすと、その息は乱れ、眦にはうっすらと涙がたまっていた。
「…ごめん」
苦しそうな様子に思わず謝る。
さっきいつまでも開いていた目は、もうしっかりと閉ざされている。たぶん、この先を期待して。
「して、いいか?」
耳元に唇をよせてそう小さく囁くと、キラの身体が震えた。今のひとことに欲情したことが、はっきりとアスランに伝わる。その問いかけに、返事は無用だった。

「ひどい、アスラン! せっかく消えかけてたのに!」
バスタオルを腰に巻いただけの姿でリビングに駆けてきたキラは目が合うなりそういった。
アスランはソファのうえでゆったりとコーヒーを飲みながら、眠気をごまかそうとしているところだった。その座るソファの背に掛かったままになっていた寝間着のうえを拾いあげてキラに差し出す。
「───キラ、風邪ひくから」
キラは取りあげるようにそれを奪い取ると「信じらんない!」と、もうひとこと追加した。
ゆうべは戯れが過ぎて、ふたりともほぼ眠る時間がなかった。もっと眠りたいとむずがるキラに「もう子供じゃないんだろ」と励ましてバスルームに追いやったのは十数分前のこと。
眠気覚ましにと熱めにしたシャワーで上気した身体に浮かぶその痕は、さきほど見たときよりも色を少し濃くしていた。
「……制服の襟で見えないところだろう? オーブのもザフトのも…」
多少理性をなくしていたとはいえ、最初の夜のときからその痕を散らす位置には気を遣っていた。首筋のものは場所としていちばんきわどかったが、制服であればきれいに隠れる位置でもある。
「そうじゃなくて。パイロットスーツに着替えるとか人目があることいろいろあるじゃないか!」
「……パイロットスーツに着替える以外でいろいろってなんだ?」
寝間着を羽織る動作がぴたりと止まる。
「………えーと?」
真剣に考え始める姿が愛らしい。
「なんでもいいから、キラ。人目に晒すなってことだから。おれのいないところで」
笑いながらもはっきりといってやると、目をぱちくりとさせてこちらを凝視した。コーヒーを啜りながら負けじと見つめ返す。
正直なところ、そんな狭量な感情──独占欲でその痕をつけたとは考えていない。もちろん、まったくとは、いいきれないが。
ただ、ゆうべは消えかかるそれにふたたび色付けることを、彼を抱く理由にしたかっただけだった。そうして、誰にいうでもないいいわけを用意しなければ、思い切ることもできなかったことが莫迦ばかしくなってくる。そう思うくらいに、ゆうべのキラは情熱をもって自分の行為に応えてくれた。
「アスラン…じゃあぼくもつけるね」
「は?」
いいながらアスランの傍に近づき、あっと思うまもなくソファに座る彼の膝に向かい合って座った。
「キラ…!」
「ぼくよりアスランのほうが危ないよね。もてるし」
違う、興味をもたれることと、もてることは違う、と思い、告げようとしたが、目の前のキラは聞く耳を持つ雰囲気ではない。
シャツのボタンをうえからひとつ、ふたつと外し、窺うようにこちらをじっと見た。
「……判った。いいよ。好きなだけ」
ため息を吐きながら許可を出すと、満足そうに微笑んだ。やろうとしていることを考えれば、あまりにもそぐわない、健康的な笑みだ。だが、キラはアスランの首元に視線を落としたまま少しも動かず、むしろじれったく思っていると、上目遣いにちらりとアスランを見やった。
「……けっこう恥ずかしいね、これ」
「じゃあやめるか?」
訊ねると、視線を横に向けて、うーん、と真剣に悩んでいる。アスランはその顎を掴んで自分のほうへ向かせると、そのまま深くくちづけた。少しだけ肩を押されて拒む気配があったが、数秒もたたずにその手が首の後ろへとまわされる。何度も唇を離したりつけたりを繰り返し、最後は、耳の下からその首の根元までをくちづけた。そうしながらキラの頭をそっと自分の肩に押しつけて、キラを誘う。
「…ん……」
微かに漏れた声と吐息が耳に届く。キラはためらいなくアスランの首筋を吸った。
あとで確かめれば、おそらくそこには、彼の所有を示す印が残っているのだろう。


C.E.74 3 Nov

Scene アプリリウスワン・ターミナルホテル

少しばかり気まずい思いがそうさせたのだろうが、キラはわざわざ受話器を使い、背後にいるアスランには会話を聞かれないようにこっそりとした声…けれど声音だけは平常を保って、通話の相手に説明をした。
「そりゃ何もないと思うけど、立場上一応ね。部屋の番号教えておくからメモして」
ザラ准将と仕事の話があって。遅くなりそうだから宿舎にもどるのはめんどうだし。アスランは気心のしれたともだちだから個人的にもつもる話が……。
───などと、さまざまないいわけを飲み込んで、本部への通信に出たシンには「今日はアスランのところに泊まるから」とだけいった。下手に理由を述べてもかえってわざとらしい、とそこまで考えて、まるで「ともだちの家に泊まるから」と親に嘘をついて外泊する女の子のようだとキラは思った。

一ヶ月ぶりの再会でまる一日一緒にいたけれども、もどったアプリリウスワンのターミナルホテルで夕食をすませた頃には、ふたりはすっかり離れがたくなってしまっていた。
それでも理性で宿舎へ帰ろうとしていたキラを引き止めたのは、アスランの「誕生日プレゼントくれないのか」のひとことだ。もとより、何か準備ができていればとうに渡している。それを知っていていうのだから、彼もたちがわるい。結局そのまま、アスランが滞在する部屋にキラは招かれた。
とりあえず居場所を自分の隊に伝えて通信を切ると、早速背後からアスランに抱きしめられる。
「キラ…」
右の耳のすぐ後ろで囁かれ、キラは思わず目を瞑った。
胸元で組まれた彼の腕に自分の手を絡ませると、旋毛のあたりに優しいキスを落とされる。そのまま、匂いを確かめるように髪に鼻先をこすりつけながら、後頭部やうなじにキスを繰り返した。
しばらくのあいだそうしていたが、突然首筋に歯をあててきたので、キラは思わずはっと息を飲んだ。押しあてられた歯と唇でそこを強く吸われる。アスランの意図を知ってキラは少し慌てた。
「…アスラン…痕なんか残さないでよ。…えっと…もうすぐ模擬戦闘訓練があって、着替えのときとか…ちょっと…」
「…ん……」
生返事はするもののキラの首もとのあたりに吸いつく行為をやめる気配はなく、その強さの度合いを心の中で量って、これは残りそう、これは大丈夫、と見当をつけた。
急にくるりと身体ごとをアスランのほうに向かされる。
「……何考えてる?」
集中してない、と目顔で叱られてキラは顔を逸らした。一瞬合わせたアスランの目はもう熱っぽくなっていて、乗り遅れたキラはただそれに気恥ずかしさだけを感じる。
「…ぁ…の…アスラン…」
もう少し話をしてリラックスしてからとか、バスで心の準備をしたいとか、とにかく何かの余裕が欲しかった。
背中をサイドボードに押しつけられ、アスランの腕はキラを逃さないように左右に置かれている。熱い視線はずっとキラにそそがれたままで、ことばも発しない。
そのまま一、二分はそうしていたように思う。
ふいにアスランが動いて、俯いたままのキラに顔を傾けて寄せてくる。唇が触れるのと、舌が挿し込まれるのは同時だった。
情熱をのせた舌を絡ませるくちづけを長く長く続けて、アスランはキラが追いつくのをそうして待ってくれた。決して追い立てるのではなく、誘うようなくちづけで。

息を整え終わってから数分後、となりで目を伏せているアスランにキラは誕生日おめでとうをいった。そういえばまだ直接いってなかったんだ、と思った途端、自然にこぼれた祝いのことばだった。
眠る呼吸ではないから聞こえていただろうが、アスランはなかなか目を開けなかった。だが焦れるほどには待たないうちにゆっくりと瞼があがり、翠色の瞳が見えると、顔ごとこちらを向いた。
「気に入ったよ…プレゼント…」
いたずらっぽく笑いながら静かにそういって、アスランはキラと彼の顔のあいだに投げ出してあった腕を動かして、指でキラの頬に触れた。
「いくらでもくれるって、いったな?」
「……や、その。プレゼントはほんとにちゃんと、用意したいから。…べつのもので」
「いいよ、気を遣わなくて。……ほんとにキラ以外、何も欲しいものないし」
うっすらと微笑んだ目で見つめられたまま口説かれる。頬をいじっていた指は激しい呼吸で荒れた唇を撫でて、指先に感じたがさつきを確かめるようにアスランの視線がそこへ落ちた。半身を起こしてくちづけをしてくる。そのあとそのまま唇を何度も優しく舐められて、それでは余計に荒れるからと止める暇もない。至近距離で互いに目を開けたまま、キスとは微妙にいえない行為が続いた。
「アスラン」
名を呼ぶと、最後に深いくちづけをひとつしてようやくその舌が離れた。だがアスランは身体までどかすことをせず、唇と入れ違いで額に額を合わせた。
「…明後日からアーモリーなんだな……。明日も会わないか。おれは時間とれると思うから」
「いいよ。ぼくも会議で報告出すくらいだし。終わったら連絡する」
遠距離が常態となることが判り、キラのなかではもう諦めができあがっている。月に一、二回はアプリリウスにもどることもあるから、まったく会えなくなるわけではないのだし、とよくいえばおとなの割り切りがあった。
アスランはまだふっきれてもいないようで、なんだか今日はずっと甘さが数割増しだったような気がしている。たった今も「足りない」と熱のこもった声で囁かれて、まだ汗の引いていない身体を抱き寄せられた。

まだ数えるほどしか重ねていない身体がどうしてこんなに馴染むのか、とキラは思う。
いつまでもぎこちなさを残したフレイとのことは、果たして互いの若すぎた年齢のせいだったのか、拭い去ることのできなかった遠慮のためだったのか。──あるいは、相手の練度の差か。
アスランの手慣れた動きを感じるたびに、彼と経験を積んだはずの“彼女”のことがよぎった。
「────っ」
胸が苦しい。こめかみがかっと熱くなり、何かを傷つけたい衝動にかられる。
アスランを手に入れたことで浮かれ続け、今まではぼんやりとしていたことが、何故か今日ははっきりとしていた。
「…や…だ……アスラン…嫌…だよ……」
「……なにが…キラ? …これ……こうするの、嫌なのか?」
拒否を示しても睦言のひとつとしか受け止められない。
交差した腕で顔を覆い、涙を隠す。隠しきれずに頬を伝うものも、行為ゆえの喜びとしか受け止められないだろう。実際、アスランが今与えてくるものは喜びも感じさせるものだから。
───悔しい。
すべてのことが。さっきは仕方がないと思えたことさえ。
ときおりにしか会えないなど、受け入れたくない。
キラに覆いかぶさっているアスランの腰に両足を絡ませて、自らの腰に引き寄せた。

「キラ…!」

優しく叱るような声にはっとする。
アスランがキラの腕を解こうとしている。
「……や…」
「…キラ……」
いいきかせるときのアスランの声音。
「キラ、見るんだ…」
アスランの半身の重さがキラの身体に伸しかかる。重みを支えていた彼の両腕は、組まれたキラのやはり両腕を掴んでいた。強制する力はなく、優しく添えるように。キラが頑に腕に力を入れていると、彼に晒している上腕の弱い部分をくすぐるように撫でられた。辿るように優しくくちづけも落とされて、日に焼けることのない箇所に火傷のような赤い痕を残す。
そして、腕で覆いきれていなかった唇に、アスランのそれが重なる。すぐに絡んでくる舌はいつも熱い。それにごまかされて、キラは腕の力をようやく緩ませた。
それでも続けられたくちづけからは、キラが息を乱す頃に解放され、アスランは互いの表情が確認できる位置まで身体を起こした。

「キラ……おれを見てるか?」
「………………」
「おれだけを見ていてくれ」
「………………」

ふっと。

キラを苦しくさせていた何かが軽くなる。何か我を失っていたようにも思う。目の前のアスランの───切ないだけの表情が、キラを目覚めさせていた。
「…なんで?」
あとから思えば莫迦なことを聞き返した。艶言を軽いことばで問い返されて、アスランはどれだけ困ったかと思う。
だが、彼は怯むことなく、おまえがぜんぶ欲しいからだ、と。いった。
「好きだ、キラ」
いいながら身体を繋げられた。
キラはアスランの望むとおりに目を逸らすことなく彼を見つめる。揺すられていたから、視界はぶれていたけれども。

ベッドのうえから聞こえるカタカタという音はさぞや寝覚めに不愉快だろうと思ったが、キラはそこから離れたくなかった。だが、今日これから会議で報告する事項を、ざっとでもまとめておかなくてはならず。
眠るアスランの横に半身を起き上がらせた格好で、服どころか下着も身につけないままで、キラはずっとパソコンでレポートを書いていた。
さっきから、アスランも目覚めていることは判っている。何か身動いだわけでも声を出したわけでもなかったが。
「───おれを嫉妬で殺す気なのか」
キーを叩くリズムで作業が終わったことを察したアスランがようやく声を出した。
「おはよ。なにいってんのアスラン」
「…おはよう、キラ…」
朝の挨拶はいつも実にさわやかな彼だが、今日は声のトーンが果てしなく低い。
剣呑な気配に、ぱたりとノートパソコンを閉じて急いでナイトテーブルに置く。パソコンを取り上げられて壁に投げつけられても困る。
「…あ、ちょっと!」
ナイトテーブルへ半身をひねった態勢で腰に抱きつかれ、あやうくバランスを崩しそうになる。幸いパソコンは無事テーブルのうえで安定していた。
「仕事に嫉妬なんてやめてよ、みっともない」
「ひと月ぶりの再会でそれなのか?」
やっぱり昨日今日のアスランは甘味料を頭からかぶったかのようだ。都合のいいことには、キラは甘いものが好物だった。
身体に回されたアスランの腕を解きながら、キラからくちづけを落とす。おはようのキスというには少しばかり濃厚に過ぎるもので。
「…ゆうべはかわいかったのに…」
唇を離すと、途端に紡がれる囁き。ぼっと赤くなる自分の顔を感じて、呻きながらアスランの顔に右手を押しあてた。
───嫉妬していたのは、自分のほうだ。
いつでも、昔から、彼の心が自分にしかないことは知っているけれども。それを無駄にしたのは自分のほうだということも判っているけれども。

「大使館のなかに住めるんじゃないの? なんかもったいなくないかな、いろいろ。護衛もつけないとならないんじゃないの」
ホテルのラウンジで朝食を摂りながら、キラはアスランからこれからのことを聞き出していた。まずは住む場所のことだが、キラが次回アプリリウスにもどるときにはその場所も決まっているだろうから、どこへいけば会えるかという意味合いだ。
「居住スペースはもちろんあるが。…護衛を雇うくらいの財産はある」
いいところのおぼっちゃんはいうことが違うやとキラは嘆息する。ちなみにこれは呆れるほうのため息だ。大使館だと気兼ねがどうとかいっているが、要はめんどくさいからだろう。
「まさか昨日とか、家を整理したのはこのため?」
アプリリウス、とくにこの第一区で居住のための場所を持つなどセレブもいいところだ。しかも、理由はめんどくさいとか、職場から近いとか、そんなことで。
「贅沢をするわけじゃないんだぞ。イザークの紹介でコンドミニアムを安く借りるだけだ。VIPが多いそうだから、セキュリティ面も問題ないし…」
それでもキラにとっては贅沢にしか思えない。自分自身もそれができるだけの身分ではあるが、慣れないものは仕方がない。
「キラがアプリリウスにもどったときに帰る場所にしたい」
食後のコーヒーを手にしながら、アスランは微笑んでそういった。その笑顔が優しくて眩しくて、キラはくらくらとする。
「……いいのかな…それ」
「…なにいってるんだ、いいにきまってるだろ? 一緒に暮らせないなんて、ごめんだからな」
それがたとえ、月に三、四日のことであろうと。まさか、そのために、と。
「キラは?」
真剣なまなざしで訊ねられる。訊かなくても判っているはずなのに。そう訊ねたとき、彼の瞳の奥に一瞬不安の翳りが見えた。
同じ、なのだと思った。
互いがいいと互いしか見えないといいながら、それでも融け合ってひとつになることはできないから。そこから生まれる不安を消すことはできない。
「ぼくも、アスランとずっと一緒にいたい」
直接告げるのは慣れなくて恥ずかしいとキラは思ったが、彼が持つ身に覚えのある不安を消してあげたいと感じる気持ちのほうが強かった。


C.E.74 22 Dec

Scene アーモリーワン・アスタアパート

ぱちん。

と。小気味よい音が天井に響いた。ほかに音のないこの部屋で、その響きだけが間をおいて繰り返される。
寝転がった床から頭だけをもちあげると、視線の先にはアスランの背中があった。キラの左足を抱えこんで、さきほどからその爪を切ってくれている。遠くからきた客人が、訪れたその日にすることがそれなのか。
不精をしていたわけではない。足の爪まで気が回るような時間がもてなかったのだ。そんなキラのいいわけを一蹴して彼は「爪切りをかせ」といった。
キラはすでに切り揃えられている右足で、アスランの背中を、ぐい、と押す。
「…痛かったか?」
「痛くない」
「じゃまをするな。もう少しだ」
親指から順番に、今は薬指。自由を奪われた退屈で、キラは仰向けたそのまま目を閉じた。
そういえば以前にもアスランに爪を切ってもらったことがあった。そのときは手の爪だったけれど。
オーブの孤島で過ごしていた朧げな日々のひとつ。頻繁に訪れることはしなかった彼が、ある日始めたぎこちない触れ合いの儀式だった。
「外側」と壁をつくっていたキラに不器用なアスランはことばが長くは続かなくて。彷徨わせた視線の先の放り投げたキラの腕に気がついて「おれがやろうか」、と。自分ではない誰かに爪を切らせることなど、それこそ幼少期の母親以外にいなかったとあとになって思った。
それからは自分も含めて誰の手入れも拒んだので、伸びた爪の長さはそのまま彼が空けた時間になった。一度、伸びきった爪の先が割れてしまったとき、久々に訪れたアスランがそれを見てひとこと、すまなかった、といった。

───謝らないで。
触れ合うための、ただの口実なのだから。

「キラ」
呼ばれて目を開けると、キラの左足を抱えたままでアスランがこちらを振り返っていた。
「終わったの」
「終わった」
「そう。ありがとう」
キラがその姿勢のまま上半身を起き上がらせると、座るアスランの背中から抱きつくような格好になる。アスランがキラの左足をどかすことをしないので、右足も彼のまえに回して両足で彼の腰を抱え、腕は首に回し、ほぼ「おんぶ」に近い体勢になると、彼の背中が少し笑ったように動いた。
「どうするんだ、それ」
「ちょっとだけ。あったかい、背中」
べつに部屋は冷えていなかったけれど。触れていたくて、触れると嬉しくて、しばらく会えなかった分を補うためなのだからと心のなかでいいわけまでも用意した。
アスランはアスランでキラのペースを意に介することなく、目線にきたキラの手を掴んでしばらくまじまじと見つめていた。
「手はちゃんとしているな」
そういいながらキラの指を伸ばしたり手のひらをもんだり、遠慮のない仕草でアスランが触れる。唇でも、触れる。回想したあのときの彼も、同じように───。
「まえにアスラン、よく爪切ってくれたよね。手のだったけど」
「…気がついてたのか」
「気がついてたよ。今みたいにキスしてくれたのも、覚えてる」
「……………」
それがアスランの秘密だったことは判っている。黙りこんでしまった彼の表情は見えない。
「きみの愛情を感じたよ」
「……なにいってるんだ…」
「ぼくきっと根負けしたんだよね」
「何に」
「きみの愛に」
「……………」
「……………内緒だったんだけど、教えようか?」
「……何を」
ようやくアスランが、ゆっくりと振り向いた。背中にはりつくようにしていたキラと間近で視線が合う。思っていたとおり、さっきの会話の流れで何をいわれるのかと困惑した表情を彼はしていた。
───アスランが爪を切ってくれて。その度に求婚されている気分だった、と。
緊張したように冷たかった彼の指先や、微かに震えながら触れてきた唇が。そうして繰り返されたことが。記憶からすっかりと甦って、いいかけたキラ自身が恥ずかしさに苛まれはじめた。あの当時はそうはっきりとも感じてはいなかったことなのに。
「…やっぱ、よす」
「なんだよ」
安堵とも残念ともつかない声でアスランがため息を吐く。それからゆっくりと、アスランの全身に絡みついていたキラの腕だの足だのを解き、自身の体を反転させ、向かい合って座った。
「……キラに触りたいってことしか…考えてなかったよ。あのときは。……必死だったからな」
キラを、そこにとどめようと。
「…知ってる……ちょっとね…重かったかな、それが」
自分のことだけでいっぱいだった頃。アスランの気持ちを嬉しく思う反面、煩わしく思う気持ちもあったことは確かだった。それを正直にいってしまっては彼は傷つくのだろうが、隠したところで彼もすでに知っている。
「内緒って、そのことか?」
キラはそれに答えず、今度は正面からアスランの首に腕を回した。
「あのとき重かったのも、今思い出すと、きみにキスしたくなるような気持ちにしかならないの。これ、負けだよね?」
「……そんなこと…知るか」
「だからキスするけど、いいよね」
「………どうぞ」
急に潔く瞳を閉じたアスランの瞼に、笑いながら触れた。そこじゃない、と不平を漏らしたその唇にも、キラのぬくもりで優しく触れた。


C.E.74 26 Dec

Scene アーモリーワン基地・キラの執務室

「まさか、うつったのか?」
ことばとともに伸ばされた手を反射的に払いのけなかったのは、やはり少しなりと熱が高かったせいかもしれない。鈍い身体機能に反して、近づく手を咄嗟にやばいと思ってしまったのは、昨日見た光景のせいだろうとぼんやり思った。
額にあてられたアスランの手の冷たさを心地よく感じる。
そこでシンはようやく彼の手を払った。失礼過ぎない程度に。
「熱いな…。もう、帰れ。うえにはおれがいっておく」
淡々と告げた冷静な台詞に既視感があった。しかし、昨日同じようにキラの熱にも気がついた彼は、今と似たようなことをしたりいったりしていたけれども、今日とは違って判りやすく動揺を含んでいた。
「このくらい寝てるようなもんでもありませんよ」
「……ほかにうつすなといいたいんだが」
「………………」
「どうせ仕事は昨日で片付いてるだろう」
それはアスランのいうとおりだった。本来ならシンの休暇は今日からなのだ。
通常、ザフトにおいて年末年始休暇などというものはないが、何故かヤマト隊には十日ほどのオフが与えられていた。オーブ国民のキラに合わせた休暇のようでもあり(オーブは年末年始に休む習慣がある)、あるいはデーベライナーの進宙式が終われば長期の艦上生活を余儀なくされるために、今のうちに家族に会っておけといわれているようでもある。
それはともかくとして、確かに置き土産とばかり風邪と思われるウィルスをこのアーモリーワン基地へふりまいて休暇に入ることはシンの本意ではない。幸いなことに、今日は休んだキラの代わりに報告書をまとめにきただけだから、まだ食堂などの人の多いフロアにいってはおらず、代理作業は本当にファイルを揃えるだけのことで、ものの三十分もかからない作業だった。
「それの続きなら、おれが…」
「いいです。終わりました。あんたももうこれ持って帰ってください。でないと、おれも帰れないし」
報告書を記録したメディアをアスランに差し出す。一拍おいて、アスランはそれを受けとった。
「……自分がオーブ人だってこと、忘れてませんか」
「忘れてないさ。ただ、監視の厳重なここで、おれが何をすると思ってるのかと…」
「タテマエってもんが、あるでしょう。共同作戦かなんか知りませんが」
シンはいいながらキラの端末を閉じ、座っていた上官のデスクから離れた。若干足がふらついたような気がする。
「ほら。けっこうあがるぞ。早く帰れ」
めざとくそれに気がついたらしいアスランは、ドア近くのハンガーからシンと自分のコートを手にとり、一方をシンに差し出す。シンはまた昨日のことがフラッシュバックして、キラの背後から肩にコートをかけるアスランの甲斐がいしい様子を思い出していた。
「シン、大丈夫か?」
コートを受けとらないシンを別の意味にとったのか、アスランは俄に心配する表情になった。
「大丈夫です。…思考すると動きが止まるみたいで。やっぱ熱、高いのかも」
シンはコートを受けとると、さきに執務室を出た。弱みを見せたら負けだというつもりもないが、いや、あるかもしれないが。とにかく足どりをしっかりとしたものにするよう気をつける。
「すまなかったな。おれの管理がわるかったせいだ」
少し後ろを歩くアスランが意味の判らないことをいっている。体調管理など個人の問題だ。それともシンにうつしたキラのことをいっているのか。いずれにしてもアスランの管理は関係がない。
シンはちらりと振り向いて彼を窺うが、同時にエレベータのまえに辿りついたため、窺ったさきはシンの横に並んで立った。
「部屋まで送ろう」
「必要ないです」
エレベータのドアが開く。その空気の動きさえも熱くなった頬に気持ちよく感じる。おかしいと思いはじめたのは出勤してまもなくで、それからみるみるうちに熱があがりきったらしい。顔も身体も火照って熱く、今すぐベッドに倒れ込みたい気分だった。しかし、他人にあまえるほど弱りきっているわけではない。
「それより隊長の様子、見にいってやってください。ほんとはアンタもそっちのほうが心配なんでしょ」
昨日との差を見るでもなく、アスランにとってキラが大切な友人であることは判っている。熱の感染源らしいキラは今頃ベッドで休んでいるだろうが、シンにとっても多少は心配なことに変わりない。昨日見た彼の様子はかなり辛そうだった。今の自分より状態はよくなかったのだろう。
「いや、大丈夫だろう。ゆうべもどって、すぐに薬を飲ませて寝かせて。そのせいか、今朝にはだいぶさがっていた」
アスランがいい終えるタイミングで乗り込んだエレベータのドアが静かに閉まった。しんと静かな沈黙がおりる。
「……泊まって看病とか、したんですか」
「…泊まるっていうか………キラの部屋で過ごしてるから」
アスランがアーモリーへきたのは五日ほどまえのことだった。実は彼自身はさらに早く休暇に入っており、本当ならばさきほど渡した報告書も年明けに手渡せればよかったようなものだ。今日を含めて毎日基地へ顔を出していたが、とくべつ仕事の用事があったわけではないことは知っている。よっぽど暇人なのかとシンは何度か厭味をいったが、彼は「まぁ、そうだな」と軽く流していた。
「ホテルとれないくらいオーブの給料安いってわけじゃないでしょ」
「それは…そうだが」
何が面白くてプライベートでアーモリーに長期滞在するのかはよく判らない。真面目な人間のことだから、オーブが関わる大きなプロジェクトがただ単純に気にかかっているとか、理由はいくらでもありそうだったが。
「でも隊長がよく泊めましたね」
「…え?」
「いや…なんていうか、プライベートはひとりでいたがるタイプだと思ってたんで、あの人」
「……まぁ、そういう時期もあったかもしれない、が」
アスランがおかしな感じにことばを止めた。何か過去に思うことでもあったのだろう。彼らのあいだのことはよくは知らない。
「むしろ子供の頃は人といたがるほうだったかな」
「………は?」
そのとき軽やかな電子音が、指定フロアにエレベータが到着したことを報せた。

「幼馴染み?」
シンはそのことに心密かに衝撃を受けた。彼らは、敵として戦場で出会い、なんだかあって和解して、それで共に戦うことになったのだと……“戦友”なのだとずっと思っていたからだ。ヤキン・ドゥーエ戦役では殺し合いをしたのだといっていた。であれば、敵同士であるまえに幼馴染み同士でそうしたということだ。
今までアスランがキラのことを話すときに感じていた、どこかもどかしいようなところや、彼がキラに執着する理由の一端を、今になって知ったような気がした。
「…そんなに小さいときから一緒に育ったってなら、それ兄弟みたいなもんですかね」
「……そうかもしれないな…」
「ともだちって感じでもないでしょ。おかしいと思ってましたよ。あんたら、距離が近すぎるって」
「…そうなのか」
「そうですね」
さきほどの意味不明だったアスランの詫びごとは、それを表していたのだ。「管理がわるかった」などと、まるで兄が下の子の面倒見るようないい方だ。いいおとなになった今でもそれはどうなのかとは思うが、つまりそうしたことが自然にでるくらいには近い距離の間柄だったのだろう。「熱か?」とキラを引き寄せ、額同士を合わせた仕草が限りなくスムーズだったことも、それでいくらかは納得してもいい。
幼馴染みではシンにはよく判らないが、兄弟といわれれば、妹がいた自分と重ね合わせてどれだけ相手が大切なのか少しは判る気がするのだ。
「ああ、そっか」
「?」
結局アスランに官舎の入口まで送ってもらったシンは、一応は礼をいうべきかと思って振り返り、すぐ過った考えについ口が動いてしまった。アスランが問いかける表情でシンを見る。
「…あ。いや。隊長の、護衛にきたのかと思って」
今更ながらに、アスランがアーモリーにきてからほぼキラと一緒にいたことに気がついた。いつか、個人的な頼みだとしてキラを護るようにいわれていたシンは、このところどうも楽な気がしていたのはそのせいだったのだろう。
「じゃあ、休暇中のこと考えなくていいすか。隊長につきあって、オーブ降りなきゃいけないかなって思ってたんすけど」
「そうか。そこまで気を遣わせて、すまなかった。…ゆっくり休んでくれ。キラにはおれがずっとついてる」
見慣れないあたたかい微笑みを向けられて、シンは一瞬だけ心臓が跳ねあがる。こんな表情もできる人なんだ、と。この数日何度となく思ったかしれない。
「ありがとう、シン」
「………いえ…こちらこそ…」
敬礼して踵を返す雰囲気でもなく、シンはコートのポケットに手をつっこんだままで棟に向かって歩きはじめた。聞こえるのは自分の足音だけで、アスランはシンの姿が見えなくなるまで、そこで見ているつもりなのだろう。板についてるらしい兄貴顔をくずしてやる真似も一瞬考えるが、シンは送ってもらった礼だからとおとなしく歩き去った。


C.E.75 30 Jan

Scene 準機動要塞エ・テメン・アン・キ

アスランはキラのプラント出向が決まってからすぐ、自身のザフト復帰の根回しを始めていた。
ハードルが高かったのは愛機の持ち出しだ。同盟の成った国とはいえ、二体もの主力機を遠く手放せるかと、国防上の理由から最もな意見でどうにもならない状態だった。いざとなればインフィニットジャスティスはなくてもかまわないと考えてはいたが、キサカがずいぶんと骨を折ってあらゆる方面に手を回し、タイミングよく昨日、最終的な許可がでたところだった。いずれにしろ、コーディネイターでも扱いの難しい機体を彼の他に扱える者がオーブにいないだろうということが決め手にはなったようだった。
首長会の一応の許可は得たということで、その後のごり押しについてはカガリが万事引き受けてくれた。
「もう派遣任務だって?! 判った、あとはわたしがなんとかしておく。おまえはいいからさっさとプラントへ行け!」
「……………」
すごい剣幕だった。彼女としても、やはりキラの行動を不安に思ったのだろう。目の届かないプラントで自身を顧みない行為をする彼を放ってはおけないと、ある意味キラ自身が理由を作ってくれたのはありがたかった。先日までアスランの根回しに渋い顔をしていたカガリが直々に、「あいつが羽目外すのを控えさせてこい」とまで念をおしてきた。
しかし、面倒ごとはもちろん、オーブ内だけでは済まない。

受け入れ側のプラントではラクスの手配が功を奏し、オーブより早くすでに準備万端と思われたのだが、このまま真っ直ぐデーベライナーへ向かうことは許されず、手順通り入隊、着任までの手続きを要請された。まあ当然の話だ。アスランは逸る気持ちを抑えながら、手続きの指定場所である“エテメンアンキ”に立ち寄った。
エテメンアンキは、月とプラントの中間部に位置する新造のザフト基地だ。平たい小惑星に複数のリング状の建造物を組み合わせた外観で、見た目からは想像しにくいが、推進装置も備えたいわゆる準機動要塞に分類される。防衛線監視のほか宇宙航路の中継基地としても戦後から重要な役割を担っていた。

ジャスティスから降りてすぐ整備士から伝言されて行くようにいわれた場所は、ロビーというよりも通路の一角がふくらんだようなスペースだった。格納庫と強化ガラス窓で仕切られており内部を見ることもできるが、見学窓はこことは別に上の方に専用の部屋がある。ふだん使われない場所であることは、いかにも事務的なソファとセンターテーブルだけが置いてあることで判る。留まる人もなく、整備士のいう担当の女性がひとり待っているだけだった。
時間が押していることを承知しているのか挨拶もそこそこに、「そのスーツのままでいいですから、ひとまず着いてきてください」と彼女がいった。
いま着ているパイロットスーツはオーブ軍のものだ。要するにゲストがひとりでうろつけないような場所へこれから連れて行かれるらしい。わる目立ちするようだがアスランはかまわなかった。この先、どこからどういう白い目で見られるかも判らないのに、この程度のことで気兼ねするようではやっていけない。プラントでの面倒ごとは些末な手続きのことなどではなく、むしろ今後のすべてと考えてもいいだろう。

登録センターで採血による遺伝子登録から始まり、指紋、掌紋、声紋、虹彩など個人を特定するあらゆるフィジカルデータを採られる。ザフトには在籍していたのだし、今更採りなおす理由はなんだろうとも思うが、詮索してそこで時間を取るのも無駄だ。最後に装備課へ行き制服などもろもろの支給品をアタッシェケースで受け取ると、誘導の担当官とはジャスティスのある格納庫脇のパイロット待機室で別れた。
採取したデータチップを登録した認識票が発行されるまであと十分弱、その間にロッカールームで着替えと支給品一式のチェックをしておくことにしたのだが。ケースを開けて、まず、アスランはため息をこぼした。制服の色が“黒”だったからだ。
───スーツはまだ構わないが……制服は誤解される。
ザフトは階級がないながらも、制服の色かたちで、いくつかの意味はある。とくに白と黒については明確に指揮する立場を指しており、アスランはそれが不服だ。ヤマト隊に指揮官クラスの数が足りているとは思わないが、キラの護衛に注力したい彼としては、そこで隊の兵らに思い違いをさせるわけにいかなかった。

戸惑っているあいだに、アスランがいるロッカールームを訪れた人物があった。知った顔だった。
「ラドル司令、こんなところに……」
アスランは手にしていた制服を慌ててベンチに置き、敬礼した。ザフト式の礼が咄嗟にでたのは無意識だった。
「今日お会いできるとは思いませんでした」
「久し振りだね。きみに会いたかったんだ。時間もないようだから、こうして」
笑顔で答礼したその人物は、先の大戦時では地上のマハムール基地司令官だったヨアヒム・ラドル。彼は現在、このエテメンアンキ司令だ。実直で物静かな人物で、アスランは好もしく思っていた。作戦を一緒にした当時、ちょっとしたプライベートの話もしたが、竹を割ったようなさっぱりした性質で、アスランの微妙な立場もさして気にしていないようだった。
そんな当時よりさらに微妙な問題を孕む彼の復隊だが、相変わらず細かいところは気にするつもりがないようだ。彼はアスランの新しい認識票とFAITHの胸章を「自分の部下として、ではないのが残念だ」とこぼしながら手渡してきた。
「IDは新しく振り直されている。つまり、過去いたアスラン・ザラとは別人、ということだな」
「……ああ…。そういう、ことですか…」
どうりでフィジカルデータを全部採られたわけである。
「まぁ、評議会も国防委も建前には変わりないだろうが。制服はどうした?サイズが違っていたか?」
制服を包んだ袋をまだ開封していないことに気づいてヨアヒムはそういった。
「話に行き違いがあったようなので…自分は護衛任務ですから、指揮官色を支給されてどうしたものかと」
「───ああ、なるほど。ヤマト隊長の補佐と聞いたから、不思議にも思わなかったな」
ヨアヒムはその場で装備課へ連絡し、無記名だが新しい制服を手配してくれた。今度は“赤”で。それもどうかと思いはしたが、今更また物申すこともできまい。
「パイロットスーツに関しては、きみの機体に合わせて調整していることもあって安易に替えは出せないが」
「いえ。そこまでわがままをいうつもりはありません。パーソナルカラーだといえばどうとでもなります」
「なるほど。だが、それこそ赤じゃなくていいのかね」
アスランは苦笑した。
「…そこはこだわり、ありませんから」
正直なところ、彼自身にとってはどうでもいい話ではあった。ただ、小隊長格以上なら白黒も問わず好きな色を使ってもよいという暗黙事項はいい訳に都合がいいと思っただけだ。
ヨアヒムが指摘するのは、パーソナルカラーは機体の色を指し、パイロットスーツは機体に合わせる倣いのことだが、しかし細かいことをいえば、ジャスティスの機体色はVPS装甲の電圧設定による結果であってパーソナルカラーでもなんでもない。アスランの戦闘ログからキラとファクトリーで決めた性能設定だがとくに不満はなく、実はそこにもこだわりがなかった。自分が設定に合わせて機体を扱えばいいだけのことだ。
「うん、まぁいずれにせよ。仮のことかもしれないが、きみがまたザフトの制服を着てくれることは嬉しいと思っている。……いろいろあるとは思うが期待してるよ」
ことばを濁すヨアヒムに苦笑いするしかなかった。
「もうひとり、きみを待っている方がいる。もうロビーにいるだろう」
「……判りました」
新しい制服を係官が届けにくると、入れ違いにヨアヒムはその場を去っていった。
アスランを待つというその人が誰なのか、訊かなくても予想はついている。彼は急ぎ荷をまとめ、ロッカーに用意されていたザフトの黒いパイロットスーツに着替え直すと足早に通路をもどった。

「──ラクス」
さきほどのロビーにもどると、彼女は確かにいた。
「アスラン」
その軽やかな声音と柔らかな微笑は、ガラスの向こうに見える多数のモビルスーツを背景とするにはいかにも不似合いなものだった。彼女がこんな場所へ出向くだけの必死の思い──不安?──を思わせる光景だった。
だが、アスランはあまり彼女を労う気になれないでいた。そもそも、ラクスがキラに余計な手助けをしたことから始まっている。反対したアスランを捻じ伏せておきながら、今度はその手伝いに混ざれとは。あまりに虫のいい話だと思った。
しかしつまるところ、こうしてアスランがキラを追って行けるのも、彼女の協力がなければ実現しなかったのは確かだ。ラクスがプラントにいなければ、物事はもう少しあとに動くことになっていたかもしれない。ラクス自身の思惑をよそにおけば、彼女にはとても感謝したい気持ちもアスランにはあった。
「今回の尽力、ありがとうございました。ラクス」
相当複雑な気持ちはあるものの、素直に礼を述べたアスランだが。
「いいえ。“婚約者”のお願いですもの、わたくしにできることがあれば、なんでもご協力いたしますわ」
「……………」
アスランは目を閉じて押し黙った。
───そうきたか。
恩を売る気はあっても買う気はないということだ。この「婚約者」に。
「急がなくては、と思いましたの。キラはさきほど、ジュール隊の同行もお断りになりましたので」
「イザークが?」
「はい。わたくしがお願いして。でも、キラもFAITHですので。無理にはできませんでしたわ」
「……判りました。おれがあらためてイザークに要請します。同じだけの権限がありますから」
彼女がここにいるということは、ボルテールもこのエテメンアンキに入港しているだろう。
「お願いいたします。アスラン」
ラクスは嬉しそうににっこりと笑って軽く首を傾けた。自分は長らくこの笑顔に騙されてきたと思いながら、それでも信頼──ことにキラに対しては、任せる気持ちをもったこともあるほどには信じていた。
「今回の遠征が終わりましたら、一度わたくしの家にもいらしてくださいね。キラと一緒に」
「…え。ああはい、ええ。…ぜひそうさせてもらいます」
突然の申し出に戸惑いつつ、彼女はいまアプリリウスフォーに居をかまえているのだったなと考える。この状況で相変わらず暢気な話ではあったが、ラクスらしくはあった。確かにまたしばらく彼女とはゆっくり話もしていなかったのだったと思い出す。
「そのときでよいのですが、そろそろ、いろいろなお話をすすめておきたいと思いまして」
「…いろいろとは…なんのですか?」
その瞬間はなにも思い当たるものがなかったが、嫌な予感だけはあった。彼は数瞬あと、聞き返すのではなかったと後悔することになる。
「わたくしたちの結婚式ですわ」
「……………」
アスランはまたもやすっかり失念していたのだ。頭の中ではラクスのアプローチはどうしてもなかったことにしておきたい事柄らしい。
「あの……ラクス…」
「キラに気兼ねということでしたら、それはご心配なく。この縁談についてキラからは“了承”をいただいています」
「ええ、それはおれも直接本人から──え?」
「カガリさんがお相手だったときはさすがに、お話をためらうことでしたけれども、キラは、」
「え、いや、ちょっと待ってください…少し」
アスランはどういうことか、とラクスのものいいについて自分で状況を考え──。
「………………知ってる…のか」
おそるおそる彼女を見る。
「おふたりがおつきあいされていることをいってるのでしたら、もちろん知っております」
キラはなんでも話してくださいますからと綻んで、アスランは“また”か、と愕然とした。
しかし、次にはからかうような笑顔を抑えて──変わらず微笑んではいたが──ラクスはこういった。
「アスランが気づかれるまえから──いいえ、実をいいますと、キラが気がつくまえから、知っています」
「ラクス…」
「キラがご自分の気持ちにやっと気がついて、慰めてあげた日のことを思い出します。……キラはずっと、辛かったのです、アスラン」
「……………」
いいながらそれまでの柔かな笑顔も消してそう打ち明けられ、返すことばもなく、アスランはただ彼女を見つめることしかできなかった。
キラが心を癒やすために過ごしていたはずの、アカツキ島での二年間。なにもできずただ不甲斐ないだけの自分に自身で歯痒い思いをし続けた、あの時間のなかで。
「あなたには敵いません、ラクス」
キラをずっと支え続け、守ってくれたこの女性には。
真実にキラのことを考えて導けるのは、いつでもこの人だったことは知っている。十四で婚約者として初めて出会ってから五年間、その心の底にどんな感情があるのかみえたことはないけれど。自分自身の狭量なこの気持ちさえなければ、大切な彼をすっかり預けることもしていただろう。
「もう時間がないので行きますが。落ち着いたら必ず伺います。話の続きはそのときに。…それと」
アスランはいいながら足元に置いたアタッシェケースを手に持ち、あらためてラクスと向かい合った。
「いま、ハロをつくっています」
「まぁ。予告いただけるなんて、初めてですわね」
「……色を決めていただきたくて。考えておいてください」
判りました、と屈託のない笑顔をくれる彼女。
「ではアスラン、お気をつけて。キラを、守ってくださいね…」
アスランは頷き、ラクスに親愛をこめてチークキスを贈った。

ジャスティスのコックピットに収まり、アスランは一度深く息を吐いた。手続きごとを煩わしいとは思わないが、自身の逸る気持ちを抑えるのに苦労をする。デーべライナーはかなりの高速艦だ。追いつくまでに丸一日は使うだろうから、その間に嫌でも頭は冷えるか、と考える。
もう一度吐息し、オペレーションシステムを起動してから整備チェックを開始する。それを進めながら思い出し、管制を呼び出した。
「ジュール隊は入港しているな?」
確認に少し時間を置いてから、ボルテールが別のゲートに碇泊中との回答があった。それから基地内の作戦部へつないでジュール隊をアルテラへ向かわせるようFAITHの権限で指令する。本当はイザーク本人に直接話すのがいいのかもしれないが、これ以上時間をとることは惜しかったし、ひとこと物申さずにいられない彼の厭味を聞く気分でもなかった。
手配を終えると間髪をいれず今度は管制官のほうから通信が入る。ディスパッチャーが用意した飛行計画の確認だった。
『おそらく明後日ヒトマルにはデーベライナーに追いつけます。……機体性能とあなたのログブックを参考につくってはいますが、速度に乗るまでのGは…限界値ぎりぎりです…』
可能な限りの最速プランで、とアスランから頼んだ話だった。不安げな担当官の声も判る。
「高機動だからもともとコックピット性能がいいし、加圧コントロールも機体に合わせて訓練している。問題はない。プランはオーダー通りだ。ありがとう、これでいいよ」
アスランは適当なことをいって通信を終わらせた。本当は、ジャスティスのコックピットの加圧制御は戦闘中に機能するものだ。プランにある重力アシストでの加速は体に相当の負担になることは間違いないだろうが、これまでにもいくどか経験済みのことだった。まずは五体満足で追いつければ、それでいい。
『全ステーション、発進を承認』
戦闘時の緊急発進とは違って間延びしたように感じる管制とのやり取りをそのあともいくつか経て、ようやく発進許可がはいった。
射出機へベッドのまま移動されていく途中で、張り出したロビーの窓にふと目を遣ると、そこにはまだラクスがいてこちらを見つめている。アスランの顔が彼女に見えていれば笑顔を返してくれるのだろうが、いまはなんとなく物憂い表情を投げかけていた。

───キラはずっと、辛かったのです、アスラン。

判っている、と口に出してつぶやく。ともすればいまもつらい思いをさせているかもしれないという疑念はあった。いや、いまからアスランが向かえば、間違いなくつらい思いをさせるに決まっている。それでも行かねばならない。キラの傍へ。
「そうしてこのさき、一生かけて償うさ」
心配しないでくれ、と心でラクスに語りかける。
『コンジット離脱。進路クリア、発進スタンバイ』
管制の呼びかけと発進サインを確認し、アスランは操縦桿を強く握った。


C.E.75 1 Feb

Scene デーベライナー・食堂

キラは最近になって気がついたことがある。だが、それは本当にいまさらなことだ。

たとえば、だ。

今、キラとアスランがいるデーベライナー第五デッキの食堂。席はおおむね四人掛けだが、中央には広めの八人席がいくつかあった。壁際の一部はふたり掛けも少しだけある。
キラとアスランのふたりで席につくとき、ふたり掛けであればどう座るかなどいっても意味がない。問題なのはここの八人掛けのような多人数席のときだ。アスランは必ずキラのとなりに座る。正面ではなく。さらに四人掛けのときは追加して微妙だ。
今は護衛なのだからそれでもいい。しかし、思い返せばアスランは昔からそうで。
席はいつもキラに選ばせる。それは幼少のころキラが自分で席を選びたがっていたから、その習慣だ。今日も座っている四人席はキラが選んで、先に座った。当然だがあとから座るアスランは、まずそのままキラのとなりに一瞬だが座ろうとして、正面に移動した。キラのとなりにこようとするのは、なかば条件反射なのだろう。
「…まずくないかな」
「………まだメニューも頼んでないじゃないか。それにおまえ、デーベライナーの食事はうまいって自慢してなかったか」
「デーベライナーの食事はおいしいよ」
さらにたとえば。四人掛けのときの微妙に複雑な問題だ。
今、食堂にシンとルナマリアが仲良く入ってきた。四人、同時に互いに気がついた。シンは何だか不機嫌そうな顔つきになったが、ルナマリアは笑顔で会釈する。たぶん、こちらへくるだろう。もう足がまっすぐにこちらを向いている。
そうすると、アスランだ。
“いつもの”とおりに、今いる正面の席を立った。そして移動する。キラのとなりに。
キラがそのことに気がついたのは本当に最近だ。指摘されたのは一年ほどまえ、アークエンジェルでミリアリアからだった。指摘されたことを実感したのは、オーブ軍で内勤が多かったころ。いわれてみれば、アスランほど“となり”に執着する人はいなかった。自分を含めて、ほかの誰も。
実際にはいた。ただ、それはムウだ。彼のマリューに対するものが、アスランのキラに対するそれと同じだった。ミリアリアからは確か、新婚の夫婦と同じなのってどうなの、とそんな感じで責められたように記憶している。キラが責められることなのか、とも思ったが。
「…まぁでも、それを疑問に思わないで受け入れてたってことがぼくの問題なんだよね、きっと」
「…………食事がうまいと何かまずいことでもあるのか?」
アスランがとなりに腰を落ちつけたところで続けたつぶやきに、思いきりの不審顔で彼が訊ねる。そのタイミングでシンとルナマリアがふたりの席の横に立った。
「おじゃましてよろしいですか?」
「もちろんルナ、シン。一緒に食べよう」
アスランの問いかけを無視して彼らに笑顔を向けると、彼もくつろいだ微笑でふたりを迎えた。ルナマリアがそれを見て、一瞬固まる。昔からのことだから仕方ないが、アスランのそう多くはない笑顔はもろもろの女性をフリーズさせるだけの威力がある。自分はともかくとして、とキラはシンを気の毒に思った。ただ、シンは仏頂面のままよそに目を向けているので、今のルナマリアを見てはいなかったと思うのだが。
アスランがわざわざ席を移動したことについて、今回であれば目の前のカップルに気を遣ってのことだろうと納得することはできる。ただ、そうそうカップルとばかり相席するでもないこの艦内で、たびたびそういうアスランを見れば、なかには気がつく者もでてくるかもしれない。
いっそのこと、ミリアリアの指摘もなく、自分自身も気がつかないままいることができていたなら、どうということでもないような気もするのだが。気がついてしまった以上、それは気になってしまう。アスランへの指摘は無駄だろう。彼には自覚がない。
「どうして“上”の食堂を利用されないんですか?」
給仕に四人分のオーダーを伝えると、ルナマリアがそう話しかけてきた。上の食堂とは、第二デッキにある上級士官専用のそれだ。そういうルナマリアとシンも、その場所を使うことが許されているポジションではある。
「寂しいから? かな…」
キラの答えに、横から小さい嘆息が聞こえた。とりあえず無視をする。
「ああ、判ります。人が少ないですもんね、上は」
「うん、そう。シフトによってはぼくしかいないときなんかもあると思うんだよねー」
「でも…もうアスランがいるじゃないですか?」
そういってルナマリアはちらり、とキラのとなりを見た。正面に人がいると、いちいち横に目をやらないのでアスランの気配がほとんど判らない。たぶん、今は何も考えていないような顔をしているだろう。もしかしたら本当に何も考えてないかもしれない。こういう場面では、アスランはキラに会話を任せっきりだから、下手をすると話を聞いていないことすらある。
「…まえにアスランから、護衛は空気みたいなもんだからいないと思えっていわれたんだよね」
「………………」
絶句したルナマリアのとなりでシンがぷっとやや控えめに吹き出した。ルナマリアがすかさずシンの横腹に肘をいれる。
「…ってーな! んだよ!」
「うるさい」
「だめだよー。仲良くしないと」
ふふっと笑ってからかうと、ルナマリアは少しだけ恥ずかしそうにした。シンはきまりがわるそうに、また横を向いた。かわいいカップルだ。
そこでキラはようやくとなりを窺った。やはり無表情でいるが、話は聞いているようでもある。
それからあともキラとルナマリアだけでおおむね会話はすすみ、シンはルナマリアによってほぼ無視をされ、アスランは話をふられたときに必要なことを答えるだけだった。
食事を終えるとルナマリアとシンはすぐに席を立ち、食堂を去っていった。ぽかりと四人席の正面が空く。
「…キラ、部下と距離が近すぎないか」
「アスランは壁作り過ぎてないかな。そんなんでどうやって部下とコミュニケーション保つの」
「それは必要だが。上下のラインがある以上、けじめがないのはよくない。なめられるぞ」
「それはきっとぼくがなめられる程度の人間で、相手も上官をなめるような人間だってことだよ」
「…………めずらしく深いな……」
「一応白服なんだけど」
「……判ってるならいいさ」
途端に流暢に話しだすアスランの極端さに、キラは内心でため息をつく。手先はいろいろと器用だというのに、どうして中身はこうも不器用なのだろうか。
「アスラン、席移らないの」
「………どこへ」
そういってアスランは自分たちの座る四人席以外の、他の席を見渡した。
「そうじゃなくて、こっち」
キラは自分の正面を指差した。
「…わざわざ?」
理解不能、という視線を向けられる。とりあえずキラは諦めることにした。必要なのはアスランなみの鈍感さだということに、気がついたから。


C.E.75 3 Feb

Scene デーベライナー・指揮官室

大洋州連合の宇宙艦を待って夕刻、ヤマト隊はプラントへの帰路についた。通常航行時の艦内は六時間当直、十二時間非番でシフトを組まれるが、指揮官など隊幹部は非番のうち半分はデスクワークなどに充て、なんだかんだと時間がなくなる。現在は作戦が終了したばかりということもあって、作るべき報告書の類が山である。
キラは今、その山を作る端からアスランに添削されて少々うんざりきているところだった。
「十二項の資料がどこにもない。この“添付”っていうのは?」
「あ。忘れてた……かも」
「……さっきからそればかりだな。早く作れ」
「もう休ませてよ…」
「もう少しだけ頑張れ。あと三十分」
そういってアスランは室内の簡易キッチンへ向かう。たぶん、励ましのコーヒーを淹れてくれるのだろう。
一緒に育った子供の頃からそうだが、彼はキラを手伝ったり、こうして励ましてくれようとはするが、基本的に甘やかしてはくれない。誰かが、キラには甘いといったこともあったと思うが(ミリアリアだっただろうか)、例えば今期待してるような「あとはおれが全部やっておく」ということばは一切出てこない。
「うう……」
キラは唸りながら指摘された資料を作り始める。アスランは淹れたコーヒーをキラのデスクにそっと置くと、隣のデスクに座って彼自身の報告書作成にもどった。
アスランがさきほど三十分と時間を区切ってきたので、このシフトでキラの仕事は終わらないとみているに違いない。それは事実だった。キラは集中さえすればどんなものでも基本的に作業は速い。が、今は気がそぞろになっている理由があった。
そっと窺い見た、アスランの横顔。真っ白な絆創膏のあてられた口元の痣は、あきらかに殴られた痕だった。
だが、アスランは「ぶつけた」とあからさまな嘘をいって、その理由をいまだに告げない。

アスランは本当にキラにずっとつきっきりだったが、正確には二度ほどその視界から消えていた時間があった。
一度目はアルテラ州知事を尋問しているとき。アスランからキラの立ち会いを断固として拒否された。
二度目はデーベライナーが出航した直後、ちょっと出てくる、とどこへいくとも告げずにひとりで指揮官室を出ていったときだ。ほんの三十分ほどで彼はもどったが、そのときに痛々しい痕をつけてきたのだった。
だが、キラは深く追及しなかった。いわれなくても、それが誰の手によるもので、どのような気持ちがその拳にのせられていたのか、すぐに判ってしまったから。それはもしかしたら、キラが受けるべきことだったのかもしれないとも思う。
殴られてきたアスランの、いろいろなものに向けられた優しさが辛く、また恨めしく、アルテラでの出来事も重なって、キラは今、どうにもいたたまれなくなっていた。
「切りがいいからここまでにしとく。あとは起きたらちゃんとやるからさ…」
区切られた時間まで届かなかったが、キラは早々に音を上げた。報告の作成ではなく、視界にはいる彼が、彼のことを考えてしまうのが、とにかく、つらい。
「……そうか」
アスランは自分の仕事に集中しているのか、そっけなく了解をした。顔をあげることもしなかった。
「おやすみ」
キラはそう告げると、その返事を待たずに寝室へ引き上げた。

脱いだ軍服をサイドテーブルにひっかけて、ベッドに潜り込む。とにかく眠って。今は眠って。逃げるのかといえば、そうだろう。一眠りして起きれば、今よりひどいことはないだろう。この心の痛みが。
だが、それから五分も経たずに寝室のドアが開く。
深いため息と、キラが脱ぎ捨てた服を取りあげる気配。ひとこともこぼさずに彼はそれを仕舞った。近づいてくる足音に、お願いだから、とキラは被っていたシーツをさらにぎゅっと引き寄せる。
「───キラ?」
優しい声が、枕元で問うてきた。

いつもと変わらないようにしていたつもりだった。
彼の口元の傷も「何をぼーっとしてたの?」「どこにぶつけたの?」と、流せるほどの軽さで訊ねるだけにしつつ、キラ自ら手当を施して。ぶつけたなんて、恥ずかしくてドクターにいえないよね、と。笑ったりして。笑ってみせたり、したのに。
「キラ」
追いかけるように呼びかけてきたアスラン。眠りにつくまでひとりにして欲しい気配を彼はきっと察しただろう。だが、放っておいてはくれなかった。
「……キラ……、頼むから」
ぎしりと沈んだベッドの端、囁くような低い声音になった彼が誘ってきたことに、キラは驚いていた。
「頼むよ…抱かせて」
「……………」
「キラ、返事は?」
「…判ってると思うけど……ぼく今日は機嫌わるいよ……」
数日前の会話を意識した。くすりと小さく笑ったアスランも、それを覚えているようだった。
「おれはそうじゃない。だから、」
優しくするから、いいだろう?───と、シーツ越しキラの向けた背中に手を伸ばしてくる。いたわるようにひと撫でしてから、今度は上向きになっている左の脇から腰にその左手を滑らせた。
「……………」
キラが感覚を堪えたのを感じとって、アスランが微笑った、気配がした。
「キラ?」
口では待っているふりをしながら、アスランはベッドの上に完全に乗り上げて、キラの体を布越しに触った。背中から圧しかかられて動きを封じられて、そうして頭まで被っていたシーツを引き、キラの顔を向かせる。
少し強引に思った行為に反して、見おろすアスランは優しく微笑みながらも切なさを滲ませていた。
「……泣いてた、?」
静かに問われたことば。
「………泣いてない……なに、いってるの」
本当に泣いてなどいなかった。けれどアスランは「そうか」といいながら、涙の跡を辿るようなしぐさで頬に指を滑らせてくる。それを顎に留めると、そのまま柔らかく唇を合わせてきた。キラの唇を吸うだけの優しいくちづけは、やはり、慰めているかのようだった。それに少しもどかしさを感じてキラが舌を差し出すと、アスランは何故か唇を解く。替わりに、頬や瞼、額に、ゆっくりと丁寧にくちづけていく。
「………っ……」
いつのまにかシーツの中に忍んでいた彼の手が、肌まで直接届いていた。その接触につい声が漏れたキラを、アスランが静かに見つめている。何を考えているのか、読めなかった。
「……するの…?」
「そういっただろう……嫌なら止めるが」
拒んだら彼はどう捉えるのだろう。本当に判らなかった。ただ、眠りに逃げようとするキラを、咎めているようには感じた。どうして?
黙ったままでいると、答えは彼が教えてくれた。
「…そうやって、おれが隠しごとをしても見ないふりをしてすませるのか。おれにも、そう、しろと?」
キラの身体を抱き込んだ手が、直に触れたまま背中を真っ直ぐおりて下穿きの中を撫する。震えたキラを無視して片側の臀部を強く掴み、揉みしだいた。
「怒ってる、んだね」
「まさか」
いいや、彼は怒っている。それだけは判った。
「…今は───どうやってキラをその気にさせようか、考えてるだけだ」
「……判ってるくせに……」
とうに反応していることは、さきほどから彷徨わせている掌が前を触れたときに気がついたはずだ。今キラが小声にこぼしたことに応えるかのように、そこへ露骨な刺激も加え始めた。小憎らしく笑っている。
「それは判ってるよ。そうじゃない。どう嘘を暴く気にさせようかってこと……」
「……………」
キラはアスランの手管に負けながらも、はっとなって気がついた。何故彼の嘘を許したままにしたのかと。判りやすい嘘を。ぶつけたなどと。シンに殴られたんだろう、と、責めることをせずに。
自分でつくろうとした、まだ薄い壁。このままにしておいたら厚みを増やしてしまうのかもしれない。
「……ん…、あッ……」
強くされた刺激に堪えていた声が漏れた。首筋を舐られる音が耳につく。自分の荒い呼気も気になって仕方がない。
「アスラン……」
呼びかけた声に彼の顔があがる。くちづけが欲しくて相手の頭を自分に引き寄せようと首に腕をまわしたが、するりと逃げられる。
「……アスラン…」
「だめ」
そう応えて起き上がり、キラが抱え込んでいたシーツを剥ぎとって、さらに動きを強くした。
「───ア…」
咄嗟に呼ぼうとして詰まらせた。なかば呼吸を忘れかける。久しぶりのせいもあるのか、彼の愛撫は必要以上にキラの鼓動を速めた。
「……ごめんな」
耳元で優しい彼の声。囁かれてキラは閉じていた瞼を開け視線を合わせる。いつの間にか彼はまたキラに覆いかぶさり、キラに触れ続けたままでいつどうやったものか、制服の上着はすでに脱いでいた。
「あまり優しく、できないかもな」
何をいわれているのか理解しきれておらず。ただ、彼の熱い息と匂い、暖かな体温と、触れ合わせる感触、全部が激しく欲しくなり、相手の背中を掻き抱いた。そのままアンダーシャツをたくしあげて脱がせると、今度はアスランがキラのシャツを片手で器用に脱がせる。それを待ち構えてから彼のジッパーを押し下げ自分の手をねじ込めば、上から息を詰める気配がした。触れるまえからそこは固くなっていると知っていた。
「キラ」
叱るように名を囁き、アスランはまた体を起こしてキラの手から逃れると足元まで下がる。何をするつもりか察して、キラは逃げるように足を動かしたが間に合わず、抑えこまれて、抱えられる。
「──アッ……ァ、アス、ラ、」
断続する直接的な刺激に何度も声が詰まり、窒息寸前に追い込まれる。アスランは、はじめの宣言どおり優しく慈しんで触れながら、そのあとの否定どおりに激しく、キラを責めた。愉悦の合間に心を暴いてくる。どういう形でも、おれに見せて、と。睦言のようにいって叱った。従うしかなかった。
出来事の重みが嫌だった。嫌がって逃げたくなっている自分も嫌だった。それでアスランに縋ろうとすることも。そのためにつくりかけてしまった心の壁を壊すかのような乱暴さを、キラに止めるすべはなく。ふたつに折られた身の中心を貫かれながら、アスランに泣いて許しを請うた。こんなにひどく啼かされたことは今までなかった。
ただ、声を抑えることも忘れるほど乱されたのは、彼が密かに怒っていたせいではなく。彼がそうでありながら、はじめから最後まで優しさでキラにそうしたことがずっと伝わっていたからだった。

静かになったアスランの髪に辿々しく指を差し入れた。しっとりとした感触をそうとも感じないくらい長く、汗に馴染んでいたと知る。目の前の彼の顔。傍に欲しくて引き寄せると求めるままに降りてきたのが嬉しかった。
整いつつある呼吸と一緒に繰り返される軽いくちづけ。深くしてくれないのは何故だろうと今更ながら気がついた。いつもならこちらの呼吸を止める気なのかと、本気で疑うほどだというのに。
キラは自分から舌を挿し入れると、途端、抱いた彼の肩が震える。そして舌先に感じた少しの違和。じわりと感じた血の味にはっとして、キラはアスランを放した。
「だから…だめだっていっただろう」
そういって優しく微笑んだ彼の片頬の、思い切り殴られた痕。したたかに打たれて口の中も切ったのだろう。今のいままでキラはそれを忘れかけていた。
「ごめ…、まだ痛いよね」
慌てたその問いには答えずに、開き直った態で彼から舌を絡ませてくる。
「ん…ちょっと……もう、心配してんのに」
少しだけそれに溺れかけ、気をもどして押しのけると、アスランはまだ笑っていた。
「それほど痛くはないよ。殴られるのは判ってたしな」
ふいに殴られるよりは歯を食いしばる分だけ被害は小さい。咄嗟に構えられるだけの覚悟を持って、シンのところへ行ったということだろう。キラがいろいろなことで、頭がいっぱいいっぱいになっていたあいだに……。自分は本当に弱くなっていると気がついてまた落ち込みかける。
「それに以前、おれのほうがあいつを殴ったことがあったからな」
「……えっなんで…」
問いかけてすぐ、聞いた話を思い出した。目を逸らしたキラにアスランが気がつく。
「……聞いたのか?」
「………ルナマリアから、少し……」
「…まぁ、悪夢だったよ。おかげでそのあとは目も覚めたけどな」
どういうことか、と今度は声に出さずキラは待った。
「───キラを失えないってことに」
「失いたくない」ではなく。「失うことはできない」と。
そう思って何もかも気がついたのだと。アスランはそう告げた。
───ああ、同じことを思っていたんだね。
そのあとキラも、シンに墜とされて瀕死でもどった、彼に。
アスランは体を起こしてキラの手を引いた。そのまま抱きしめてくる腕がキラの「失えない」もの。キラを弱くするものだった。
「……無理させたか?」
「ううん……」
「おれには何も隠さないで」
耳元に囁かれる願いには応えず、彼の背に回した両腕に、ただ、力をこめた。