萌芽


C.E.73 3 Sep

Scene アカツキ島・マルキオの孤児院

オーブ連合首長国の本島ヤラファスに連なる島、アカツキ島の浜辺にひとり、長らくぴくりとも動かない人物の姿があった。
その微動だにしない様子はまるで、いたずらで誰かがそこに置き去りにしたマネキンかとも疑いたくなる。人間である証拠に、その胸は呼吸でかすかに動いている。柔らかいランプブラックの髪は造りものではありえないさらさらとした動きで、海からの微風に揺れていた。

遠くからジェットヘリのエンジン音が響いてきた。
浜辺に立つ人物──キラは、ゆっくりと顔を巡らせて音がする方向を見やる。ヘリが視認できる距離へ近づくと、キラはわずかに不審の色を浮かばせた。
───いつものじゃない。
機体にあるマークでアスハ家所有のものであることは見てとれる。だが、いつもこのアカツキ島へやってくるヘリとは違うタイプのものだった。いつものであれば、その中にはよく知るふたりが乗ってくる。いずれにしても、彼ら以外にここを訪れる者などいないだろうから、いつも使うものが調子わるいとか何か理由があるのだろう。
彼らふたりは、忙しい公務の合間をぬって頻繁にここを訪れた。カガリがくるときは必ずアスランが付き添う。それ以外はアスランひとりで。今日はどちらだろう、と考える。
───アスランひとりだったら、嫌だな。
いつからか、そう思うようになってしまった自分に嫌悪を感じる。カガリが一緒なら、彼女が中心となっていろいろと話しかけてくるから、キラはアスランをそれほど気にすることもなく過ごすことができる。
アスランのことは大好きで、大切だけれど、傍にいることが、つらい。彼はそんなキラの思いを知るはずもなく、いつもキラを気遣って様子を訊ねてくる。最近はだいぶ回復して、以前のような会話をする“ふり”もできるようになったけれども、彼の傍にいることの息苦しさは依然あって、キラを苦しめていた。
それでも心配させないために、今日も嘘の笑顔で彼を出迎えるのだ。正体の知れない息苦しさを味わうことを諦めて。

ヤキン・ドゥーエ宙域戦の決着を見てから、まもなく二年になろうとしていた。
フリーダムのコックピットから投げ出されたキラは、アスランとカガリに回収されて生還を果たした。だが、もどったアークエンジェルの中、まもなく降り立った地球でも、何故かキラは昏々と眠り続けた。目を覚ましているあいだも半分眠ったままのように意識が覚醒せず、傍目にもぼんやりとしていた。医師の診断では異常はどこにも見当たらず、結局は“精神的な要因による何か”で片付けられていた。
周囲の者たちはその原因はこれまでの戦いのことと決めつけて、キラが平穏に過ごせるようにとひと気のないマルキオの元へ預け、ラクスとカリダが付き添った。
いや、最初はアスランも一緒だった。いつからいなくなったのだっけ、とキラは思い返すがはっきりとはしない。
その頃キラは、昏睡の次にやってきた自分の中のことに精一杯で、周りにまったく目がいかなかった。

“異常”──だったのだ、と思う。

それは実は、戦争の最中に始まったことだった。戦闘をおこなううえではそれは多いに役立ったけれども、平穏な日々の中では邪魔にしかならず、また、無駄にも関わらずその力は増大していた。
ともかく、感覚が異様に研ぎ澄まされ、ときには傍にいる人間の心の動きまで判るような気がした。ふとした予感がその通りになり、自分がつまずいてころぶことさえその事前に感じ取り、時間と事象のバランスが崩れた。既視感が立て続けに襲ってくるような感じだった。
他人との境界線はどこで、どれが本当の時間で、その中にある自分自身は、本来の自分はどこなのか、と探し当てることに必死だった。頭の中の忙しなさと混乱は身体への命令も阻害するので、結局キラはことばを発することを含めて動くことをしばらくのあいだ諦めることになった。その様子は、周囲からはただキラがぼうっと惚けたように映っていたらしい。
一年が経過して、ようやくそれは落ち着いた。…というよりも、無意識に制御する術を覚えたらしい。今は、長らく使わなかった感情の表現や他人とコミュニケーションをとる方法を少しずつ思い出し、せめてまともに生きている人間に見えるようにとリハビリを続けている。
同時に、何故そんなことが起こったのかを考えた。
やっぱり少し、くるっていたのかもしれない。戦いのストレスが一気にキラを襲い、錯乱させていたのだと。少なくとも周りの皆はそう、思っているはずだった。それでも、キラ自身は少し釈然としないものを感じている。くるうこととは逆のことが起きていて、それに身体がついていかなかった、というほうが正しく思えていた。ただ、そう思っていること自体がくるっていた証かもしれないと思えば、微かに自信がなくなってくる。
感覚の鋭くなる一瞬はいまだにあって、極力その力を使わないように今は意識もしているけれど、ふいにこぼれてしまうこともよくあった。
その瞬間を察してでもいるように、タイミングよくマルキオがいうことばがあった。
「あなたは、シードを持つ者ゆえに」
それはマルキオに出会ったばかりの頃、クライン邸で過ごしていたときにも何度か耳にしたことばだった。キラはその意味を深く考えることをせず、元宗教家ならではの哲学的に何か意味合いのあることばなのだろう、くらいに聞き流していた。ただ、少なくとも盲目の導師はキラの心の中で起きていることを知ってくれてはいるようだ、と思うことができた。

のろのろとした足取りで、マルキオの孤児院、“祈りの庭”にたどりつくと、にわかにその周りが騒然としていた。建物のまえにはいつになく、数人のアスハ家の使用人の姿があり、その中に見慣れた金髪の彼女も立っていた。いつもと違うヘリが運んできたのは、彼らだったのだ。
近づくキラに気がついた金髪が、跳ね飛ぶように駆け寄ってくる。
「キラ! ごめんっ!! わっ……わたし…!」
「…どうしたのカガリ。なんで謝るの」
カガリは今にも泣き出しそうな表情をしていた。

「──アスランが……っ」

さっと視界の色が落ちる。
カガリのひとことで、彼に何かが起きたのだと理解した。
「アスランが、何?!」
血相を変えたキラを目にしたカガリがはっとしたように一瞬固まった。自分の態度が彼を動揺させたことに気がついたのだ。
「ごめんっ……大丈夫! あ、あいつは大丈夫。でも、けがをして……」
少しばかりトーンダウンしたカガリの声を注意しながら聞く。嘘はいっていない。でも、大丈夫といいながら、何故彼女が心の裡でこんなにもうろたえているのかが、判らなかった。
「けがって?」
「あの……襲われて。アスハ家の関係者だったんだ。急なことで。……アスランは。わたしを庇って。銃で撃たれたんだ」
彼女らしくなく視線を外したカガリは、その表情を歪めている。
「──それでアスランは?」
「ここに連れてきた。今、中に運んで……」
言い終わらないうちにキラはカガリを放って走り出した。
室内まで駆け込むと、そこにいたラクスとカリダがはっと振り返る。
「アスランは?!」
ラクスはそっとキラに近づき、その両手を両肩に触れさせて、キラ、と呼びかけた。
「アスランは今、薬で眠っています」
──アスランは、大丈夫。静かな笑顔がそう告げているのが判り、キラは少しばかり落ち着きをとりもどした。
そのアスランを運んだらしい人間たちが奥の部屋から出てくる。カリダがそれを労って見送り、外へ出た彼らにはカガリが何かを話しかけていた。呆然とその様子を見守っていると、ラクスがふたたびキラに話しかけた。
「ごめんなさいね、キラ。お部屋が足りないので、アスランはあなたのお部屋に運んでしまいましたの」
「───え?」
「もう、お顔を見にいかれても、よろしいかと思いますわ。…眠っておりますけど」
そのことばに弾かれたように身体を動かし、キラは自分に充てがわれている部屋へと向かった。

質素な部屋のベッドに、アスランが横たわっている。その傍では医師と看護師が、医療器具の調整をしていた。作業の邪魔にならないよう、部屋の入口でキラはアスランの顔をそっと窺う。
出血がひどかったのであろうか、顔色が最悪だった。眠るその表情はとても安らかには見えない。苦しさを微かに滲ませているようで、キラは心臓がぎゅっとなる。
彼の仕事は身体を張ってカガリを護ることだ。いつかこういうこともあるかもしれない、とは思っていた。だが、カガリは国民人気が高いことや、別の意味ではその若さを政敵からは侮られていることもあり、凶行のターゲットとなることは少ないと思われていた。ましてや代表首長を直接襲えるほどの距離まで近寄れる者など、そうはいないのだ。カガリ自身がその危険度の低さを知っていたからこそ、アスランをその任務に就かせていたということも知っている。
キラはぼんやりとした認識の甘さを悔やんだが、今更になって大切なカガリの傍を彼以外に任せることも考えられないというジレンマにも襲われた。

看護師は点滴を整えると、アスランの熱を測り、横にいる医師に頷いた。医師はそれを合図に部屋を出ていく。もう近寄ってもいいだろうかと考えていると、キラの気配に気がついた看護師が微笑んで「よろしいですよ」といった。アスランに歩み寄るキラの重苦しい表情を見て、何かありましたら呼んでください、と看護師も部屋を出ていく。
アスランの枕元に設置された機器からは、彼の心音を示す電子音が聞こえる。アスランが生きていることの証だった。

───アスラン。

ついさきほどひとりでいた浜辺で、アスランに会いたくないなどと感じていた自分を忘れ、目の前にいる存在を心から安堵した。
デスクの椅子を引っ張り出し、ベッドの横に付けてそこへ座る。点滴の繋がる腕にそっと触れ、その手を握った。蒼白な顔色からはありえないような温もりがじわりと伝わる。
巻かれた包帯の場所で、撃たれた箇所は肩口かあるいは、胸のあたりと見てとれた。もしかしたら、少しその位置がずれていたら危なかったのではないだろうか。キラは自分の想像にぞっと背筋を凍らせた。両手に握ったアスランの手に、祈るようにキスをする。そのまま自分の額に押し付けて、ふたたび襲ってきた動揺をやり過ごした。
───大丈夫。アスランは大丈夫。
カガリとラクスもいったことばを心の中で繰り返す。

アスランは大丈夫。生きている。

その様子を部屋の外から窺っていたカガリとラクスは、目を合わせてからドアをそっと閉めた。
「まずかったかな……キラにはまだ、ちょっと刺激が強かったかも…」
アスランをここへ連れてきた自分の判断を思ってカガリは後悔した。いつも目の前のことでいっぱいになり、その先のことまで考えが及ばない。ふだんアスランからも注意されていることを思い出し悔やんだ。
肩を落としたカガリに、大丈夫ですわ、とラクスが柔らかく応じる。
「大切なおともだちがけがをしてらしたら、以前でも同じようにうろたえたのではありませんか?」
それは、そうだろうと思う。むしろ、あのキラの姿はよい傾向なのではないか。感情が、もどってきている。

ラクスは以前、無反応だったあのキラの様子は決して感情が欠落したのではなく、その裡にあるものに身体のほうが反応しなくなっているようだ、といっていた。もしも、そのとおりだとしたら、あの狼狽は感情が素直に身体に表れているということだ。ここにいる誰だって、アスランがけがをすれば動揺する。同じことをキラがしているだけのことだ。そう思ってカガリは自分を落ちつかせた。

───だとしても、あのことはキラにはふせておかないと。

襲われたのは、カガリではなかった。
襲撃者はまちがいなくアスランに銃口を向け、二発の銃弾をその身に撃ち込んだのだ。──ザラは死に絶えろ、と叫んで。
至近距離からの襲撃は、コーディネイターである彼にも避ける暇がなかった。咄嗟に急所を外すことはしたのかもしれない。肩の骨に弾丸が食い込んで、その摘出に大きな手術を要したが、弾を受けた箇所は二つとも危険な場所からは外れていた。
……だがそれは、たまたま幸いだっただけのことだ。
カガリは自分の落ち度に自らの頭を殴りつけたい思いでいた。あのような思想をもつ者が傍にいて、何故気がつくことができなかったのかと。
病院に運ばれるあいだ、それもコーディネイターの強さゆえなのか、痛みに気を失えないアスランを見守りながら、何度もそれを詫びた。彼は痛みに呻きながらも「きみのせいじゃない」とカガリを励ましてくれた。
そして、これだけは頼む、とアスランはいった。
「キラにはいわないでくれ」
撃たれたことをいわないでおくことはできないだろう。代表首長の目の前で起きた凶行はさすがにニュースにも流れる。アスランは襲撃の理由を、キラには黙っていてくれといっているのだ。カガリは何もいわず引き受けた。
アスランはカガリの護衛を務めている。その理由を、カガリが襲われて彼がそれを庇ったのだということにすれば何も問題はない。もしかしたら、それでキラがカガリをうらめしく思うことも、少しはあるかもしれない。だが、そんなことはかまわない。アスランがそう望んでいるのだから。それに、弟の大切なともだちを傷つけたことは、事実には変わりなかったのだから。
「あの看護師は残すから。何かあればすぐに医師をヘリでよこすし…」
カガリはがっくりとしたまま、ラクスとカリダに後のことを頼んだ。
忸怩たる思いでいっぱいだったが、アスランが望む通りの報道管制も敷かねばならない。襲撃者の詳しい背景も気になった。カガリが今アスランのためにできることは、ここにとどまって彼を看病することではなかった。
「……すまないが、わたしはそろそろもどらないと…」
「お任せくださいな、カガリさん。どうぞ、こちらのことはご心配なく」
ラクスの気遣いに微笑みを返し、最後に、用意した護衛チームへと指示を残す。ここをアスランの療養地に選んだのは、そのひと気のなさだったが、それでも周囲に警戒を怠ることはできない。
中立国といえど、アスランにとってここは安全な場所ではない。それを思い知らされた事件だった。
カガリは後ろ髪を引かれながら、“祈りの庭”を後にした。


C.E.73 8 Sep

Scene アカツキ島〜オノゴロ島

麻酔がきれるとアスランはすぐに目を覚ました。
「………ラクス…」
呼ばれてそのことに気がつく。
「アスラン」
彼の傍らにいたラクスは気遣わしげに名を呼んだ。それと、安心をさせるような声色で。
「……キラは…?」
彼の目覚めてふたこと目に、ラクスは心の裡でそっと笑む。
室内の様子で自分がどこへ運ばれたのかすぐに判ったのだろう。そして、今の自身の状態を知って心配するキラを、心配しているのだ。

───あるいは、ただ、キラのお顔を確かめたいだけなのかもしれませんわね。

「…お呼びしましょうか?」
「………………」
ラクスは手にしていた文庫を閉じて、アスランが横たわるベッドのサイドボートに静かに置いた。
いらえのないアスランの顔を覗き込み、その感情を読み取る。
「……喉が渇いてはおりませんか? キラはさきほどまでここに、いたのですけど、」
ここでアスランは初めてラクスのほうへ顔を向けた。ほんの一瞬だけ表情を歪める。動いたことで傷が痛んだのだろう。
「あなたが目を覚ましたら、喉が渇いているだろうとおっしゃって…今キッチンで、ジュースを作っていますわ。あなたのために」
「キラが?」
「ええ。最近はよくキッチンに立って、食事のお手伝いもしてくださいますのよ」
ことに、この頃はオリジナルのジュースを作って子供たちにふるまったりなどもしていた。作るものはそのときどきでブレンドに失敗することもあり、いつもおいしくできるとは限らない。子供らは、そのひとくち目をいつもどきどきとしながら口にしている。
そんなことを語って聞かせると、彼の蒼白な顔色はわずかに上気して口許は小さな微笑みを表した。
「……カガリは何かいいましたか」
だがすぐに笑みを消し、少しの沈黙のあとアスランはそう訊ねてきた。
「…カガリさんを庇って、あなたは撃たれた、と」
「………キラはそれを、信じた?」
「…アスラン…、何を疑うと、おっしゃるのですか?」
アスランはその問いにも答えなかった。

キッチンでキラはイチゴの蔕を丁寧に取っているところだった。
時間がかかっているのは、子供たちの分も、とカリダにねだられたからだ。
「キラ」
すぐ背後でラクスの柔らかな声がする。その声ひとつで、アスランが目を覚ましたのだとキラには通じた。
首を静かに巡らせて彼女を見る。少し微笑んでみせてから作業を再開した。
「イチゴミルクですか?」
「これなら、ぜったい失敗しないからね」
カウンターにある材料を見たラクスが今日のメニューをいい当てた。
「アスランが喜びますわ。……今しがた、目を覚ましました」
「うん」
「喉も渇いている、とおっしゃってます」
「うん。判った。急がないとね」
ラクスの穏やかな心は、キラのなかにあったいい知れぬ恐怖の残滓を拭い去った。もう取り乱すことなく、彼の顔を見ることができると感じる。
キラは、実はその心を落ちつかせるためにジュースを作る、といった。目覚めない彼の傍らにいるだけでは、震える手を止めることができなかった。
どうして、と思う。
手術は成功し、命の心配もないといわれた。モビルスーツで出撃するときよりも、保証された彼の命。
───たぶん、目を逸らそうとしていた。彼から。
その理由は判らずに。そして、逸らしているあいだに起きた出来事に恐怖したのだ。
───そんなことをしてる場合じゃない。
いつのまにかアスランに対して作っていた壁を、そのままにした自分が莫迦だった。理由が判らないのなら、それはないも同じだ。わけも意味もない壁など、すぐに取り払うべきだったと後悔する。
キラはミキサーにイチゴと牛乳を入れた。そして、アスラン用と子供たち用とでハチミツの量を変え、ミキサーを何度か回す。
そうしているあいだずっと、早く目覚めた彼の顔を見にいきたい、と思っていた。ことさら丁寧にジュースを作って、それを引き延ばす自分を不思議に思う。
彼の顔を見たい。見たくない。
ゆるやかにすすめていた感情の回復を、今ここで急にすすめることに慣れず、キラは少しだけ戸惑っていた。

アスランを放っておくと、いつも沈んだ表情に落ち込んだ。
それに気がついたキラは、何くれとなくアスランを介護してかまい、会話がなくなっても傍から離れないようにしていた。兄弟のようにして育った彼とは、無言のまま何時間一緒にいても特別苦にはならない。
そうしてときおりアスランの様子をちらちらと見ながら、キラは本を読んだりパソコンで遊んだりして、彼と同じ部屋で数日の時を過ごした。

不思議なことに、アスランはキラの世話を唯々諾々と受け入れた。ときおりは、微笑んで礼もいった。
「変な感じ。自分がかまわれるのはいつも嫌がってたのに」
カリダからアスランの新しい着替えを受け取りながら、キラはそう母親にこぼした。
「子供のときはアスランくんがお兄ちゃん役だったものね。でも、彼もいつまでも子供じゃないでしょ?」
キラはそのことばに少しどきりとする。
───昔とは、違う。
そうだった。昔とは違う。敵対していたときに、何度も思い知ったことだった。今は昔のように傍にいるけれども、やはり違うのだ。身体も顔もおとなびて、そしてその心の裡も。
そして、彼はもうキラだけのアスランではなくなっている。いいようのない寂しさがキラを包みこんだ。拗ねた気持ちがふっと湧いて、アスランの世話をすることが嫌になってくる。
───ひどいな。ぼくはこんなに独占欲が強かったろうか?
メンデルでしばらくのあいだ、彼を独り占めしていたことを懐かしく思った。いつの間にかキラから手を離し、戦いが再開されるころには、その手はカガリのものになっていた。そして、今も。
大好きなふたりが、お互いを大切に想って傍にいるのはいい。彼らの倖せを思うだけでいつも心が温かくなった。今もその気持ちに変わりはない。
それなのに、この感情は何だろう?
少しばかり不愉快な気持ちでアスランの着替えを手伝う。アスランは、そんなキラの様子にすぐ気がついてきて、どうかしたのかキラ?、と訊ねてくる。
こんなところばかりは、昔のままだ。キラのことがすぐに判ってしまうのは。
気がついて欲しくないのに。こんなに醜い気持ちでいることなど───。

キラが「ひとりでいいよ」というと、ラクスは心配そうな顔をして何かをいいかけた。それでも一瞬の後には微笑んで、「判りました。お気をつけて」と送り出してくれた。
キラは、小型のボートを走らせてオノゴロ島のアスハ家別邸へ向かった。
何度か出血がひどくなったせいで、アスランの着替えが足りなくなった。悔しいことに、キラの服ではサイズがひとつ小さく、アスランには合わない。着替えをわざわざアスハ家の使用人に持ってこさせるのも何だから、とキラが取りにいくことにしたのだった。
別邸に着くと、さきに連絡しておいたため、カガリの侍女であるマーナがひととおりのものを用意しておいてくれていた。
「少しお休みになっていってくださいな。たまにはマーナの相手もしてくださいませ、キラ様」
確かに荷物だけ受け取って「さようなら」とはいかない。
マーナに捕まることは想定していなかったな、とキラは苦笑いした。何しろ彼女のマシンガンのようなおしゃべりはとりとめがなく、まともにその相手をするにはかなりの疲労を覚悟しなければならなかった。
だが、そのとりとめのなさで、キラはアスランのけがの真実を知った。
「───アスラン、の、ほう?」
「そうなんでございますよ。何でもお父上様をお恨みしていたとかで。とんでもない八つ当たりではありませんか!」
───カガリを庇って負ったけがだといっていたのに。“アスランの命”、が、狙われた──?
ことばをなくし、さっと青ざめていくキラの様子に、さすがのマーナも気がつく。
「キラ様?」
名前を呼ばれてはっとし、「ぼくもうもどります、ありがとうございました!」といいながら立ちあがる。後ろでマーナがまだ引き止めるようなことを何かいっていたが、かまってなどいられなかった。
ボートまで走って飛び乗り、アクセルを全開にしてアカツキ島へもどる。
───アスランが狙われる、なんて。そんなこと、聞いてない!
アカツキ島の桟橋につき、ボートを飛び降りたあともキラはひたすらに走った。その間に周りを注意して見ると、孤児院の周辺に護衛の姿をいくつか認める。
───今まで、気がつかなかったなんて。
キラは舌打ちしながら家に入る。明らかに顔色の変わっているキラを見つけて、ラクスが傍へ寄ってきた。
「……キラ?」
キラはラクスの呼びかけを無視し、そのままアスランの休む部屋へ向かおうとする。

「キラ!」

強く呼び止められて、ようやくその足を止める。
キラの中に、怒りと恐怖がうずまいていた。おそらく自分は、このままアスランにぶつけようとしていたのだ。それに気がついたキラの表情は、みるみる歪んでいく。
「───っ! ラクスッ」
助けて、と声にならない声で叫ぶ。その場でくずおれるキラを支えて、ラクスは優しく震える背中を撫でた。
「少し、お話をしましょう。ね、キラ?」
ラクスに誘われて、外へでた。
「──きみは知ってたの?」
キラの話を聞いて、ラクスはいいえと答えた。
「でも、そういうこともあるかもしれない、とは……思っていましたわ」
アスランが地球で偽名を使うことの本当の意味を、今になってようやく知った…。
プラントからの追い手から逃れるためなのだと、思っていた。もちろん、それもあるのだろうが、このもうひとつの意味は、彼にとってオーブが安全な場所だとばかり思い込んでいたキラに大きな衝撃を与えた。
「ラクス……ぼくは…っ……。ぼくは、アスランを失いたくない…っ…!」
気がつくと、こわい、嫌だ、といいながら泣き叫んでいた。ラクスはそんなキラをふわりと抱き止めて「かわいそうなキラ」と囁く。想像しなかった恐怖を目の前につきつけられて、急に目が覚めてしまった。
もどってきた感情の爆発に震える肩を、ラクスはいつまでも優しく抱きしめていた。


C.E.73 8 Sep

Scene アカツキ島・マルキオの孤児院

どのくらいの時間が、経っていたのだろうか。
嵐のように渦巻いた感情は、いつのまにかひっそりと凪いでいた。
キラは、キラが好きな浜辺で、ただ黙って沈みゆく夕日を見つめ続けている。傍らには、まだ心配そうに見つめるラクスがいた。
冷たい潮風に気がついたキラは、上着を脱ぎ彼女に羽織らせた。
「──ごめんねラクス。もどろう。……ぼくはもう大丈夫」
ラクスは少しだけ悲しそうな笑顔になり頷くと、いつもの優しい声で気遣う。
「そろそろお食事の時間ですわね。今日はわたくしがアスランのお世話をいたしますわ」
「ありがとう………でも、」
キラはもう気がついていた。それまで感じていた、アスランの傍にいることの息苦しさの正体を。
「ぼくはアスランの傍にいたい。アスランもぼくに傍にいて欲しいって思ってるから」
ラクスの顔をまっすぐに見ることができず、キラは海へ視線を流しながら告げた。それでもその告白ははっきりとしていて、迷いはどこにもなかった。

「今日はずっと放っておいてごめんね」
アスランが身体を起こすのを手伝いながら、静かな声で話しかける。
「何いってるんだ、そんなこと…」
キラの外出の理由はカリダから聞いていたようだ。自分のために出かけていた者を責める人間がどこにいるのかと、その声が告げている。
ベッドに半身を起き上がらせたアスランの膝に食事のトレイを預け、キラも横にあるデスクで自分の食事を摂った。そうしながら、マーナのすさまじいおしゃべりにつきあわされたことや、その内容を楽しく話す。
アスランの撃たれた本当の理由については、ひとことも触れずに。
たぶん、余計な心配をさせるのが嫌なのだ。だから彼は、カガリにまで嘘をいわせて──。
非難する気持ちはなかった。
ただ、哀しかった。
同じ心を持つ自分たちが、相手への気遣いで距離をつくってしまっていることが。その隙間を埋めたくても、そうすることはできない。──アスランもきっとそう思っている。おそらく無自覚のままに。

食事を終え、アスランの身体を拭いてから、窓を少しだけ、開けた。外の空気を気持ちよさそうに感じながら、アスランは星空に視線を預けている。すでに今日の会話はなくなって、キラは黙ったままそんなアスランを傍らで見つめていた。
キラの眼差しにアスランは気がついているはずだった。彼が視線を送る先の窓ガラスには、すぐ後ろに佇むキラの姿が反射している。気づいていながら何もいわず、何分もそうして見つめられるままになっていた。
だが、ふいに振り返って「キラ」と呼びかけてきた。
その声は消え入りそうで、もしも外から流れてくる波の音と重なっていたら聞き取ることはできなかったかもしれない。
「何、アスラン」
応えると、微かに眉を寄せてキラにしか判らないほどの切なさを表情に乗せる。外の空気に触れて潤んだ瞳の色は、夜の闇にも触れて暗い翠になっていた。その瞳が、キラを見つめ返す。
───いいたいことがあるのは、おまえのほうじゃないのか?
アスランの声が、聞こえたような気がした。
彼は気がついているのだ。キラがでかけた先で、何かがあったということに。
どんなに隠しても、取り繕っても、彼だけはごまかせない。
いつでも彼は、キラの感情に敏感だった。

───ぼくのものではないきみが、どうしてぼくを気にかけるの。
ぼくのものではないきみが、何故ぼくのことをいちばんよく知っているの───。

何故も理由もない。アスランは誰よりもキラのことを考え、いつでもキラを見つめている。
アスランは“そう”なのだ。たとえ彼が誰のものだとしても、彼はそうなのだと。彼のその瞳が告げている。
「もう、閉めるね」
先の呼ばれた声をわざとはぐらかし、冷えた空気に気がついたかのようにいった。アスランはそれに表情を落として応える。無理に微笑む彼が痛々しい。
「……ああ。ありがとう」
窓が閉じられると波の音が遠くなり、ふたりの沈黙を埋める何かが必要な空気になった。いつものように放っておけば、アスランはことばにしてしまうだろう。
「明日も天気がよかったら、」
アスランを止めるために、キラはことばを紡ぐ。
「外へ、出てみる? 少し歩くといいよ。そろそろ」
「──そうだな」

ふたりの関係は、また何か変わってしまった。
いつのまにか、敵対していた頃よりも遠い距離ができていた。心はこんなにもはっきりと寄り添っているのに。
───ぼくたちは、ただの仲のよい友だちだった。誰が、何が、こんなに難しくしてしまったんだろう……。
気がつかないほうがよかったのかもしれない。アスランとふたりきりでいるほどに感じた、それまで感じることのなかった胸の苦しみの理由など。

あれは、手の届かないものが欲しくなったときの、寂しさに似ていた。

─End─