C.E.74 Sep カルペディエム


C.E.74 3 Sep

Scene オーブ軍本部・本部棟応接室

「だめ、キラ。やり直し」
向けられたスチルカメラのレンズをじっと見て、キラは深くため息を吐いた。さきほどから繰り返されるミリアリアのダメ出しに、となりに座るアスランへ助けを求める視線を送ってみるが、これは仕方ないだろうといいたげに首をふっている。
彼女がいうには、表情がどうも緊張していていつものキラとちょっと違う、とのことだ。長くつきあってきた彼女が気がつく程度の、「ちょっと違う」くらいだったらどうでもいいのじゃないかと思うが、彼女なりにプロとしてのこだわりがあるらしい。
オーブ軍の広報局に務める彼女は、その職務のひとつとして軍内広報誌の記者をやっていた。写真撮影の腕もさることながら記事も書ける彼女の存在はなかなかに貴重なのだと聞く。実際、高官フロアでカメラを抱えて走る姿をよく見かけるし、キラやアスランのところへ取材にくるのもこれが初めてのことではなかった。
「もういいわ。じゃあ先にインタビューさせて。話をしてるうちに、緊張も解けるかもしれないでしょ」
その言にキラはどうかな、と思う。今まで受けた取材は、自分の仕事の“ながら”で彼女と軽口をかわしつつコメントを落とす程度のもので、このように部屋のソファにちんまりと座っての対面インタビューなど初めてのことだった。おまけに、“音声”に録るという。
「アスランは写真、もういいけど。さすがに慣れてるのね」
ミリアリアはここまで撮り終えたカメラのデータを確認しながらいった。アスランは確かに慣れているのかもしれない。キラにはぴんとこないが、彼はプラントではずっと有名人であり続けていたのだから。いや、それ以前に性格的なものも、あるのかもしれないが。
「………………」
どぎまぎとしているキラを彼は彼で理解の外としているのか、アスランはしれっとした顔でソファにくつろいでいた。たかが写真じゃないか、とでも思っているのだろう。
「きみって厭味だよね、ほんと」
キラは照れくささの八つ当たりにそんなことをアスランにいった。
「……おれは何もいってないだろ」
「顔に書いてある」
「はいはい、けんかしないで。時間少ないんだから、そんなの取材が終わってからにして」
准将をふたり相手にミリアリアはしっかりと仕切り屋さんになっている。学生時代から比べると、彼女は本当にたくましくなったものだ。

今日の取材の内容はプラントと交わす軍事同盟のことや、来年から向こうで仕事を開始する面子の、いわゆる今後に向けた抱負というものだ。キラは一足早く来月プラント入りをする。アスランたち他の外交官も、事前調整のため11月に発ってしまうので、来年のことを今の9月にというのは先取りし過ぎた話でもなかった。
キラとアスランのふたり──とくにキラは、公にしていない特別の事情、特別の立場をさまざまに抱えているわけだが、実をいえばミリアリアにはあらかたのことは話していて、キラがザフトでSEEDの研究をすることや、SEED研究開発機構の設立に深く関わっていることなども知っている。それらはオーブ軍内でも多くの人間にまだ伏せられている事項だったので、「プラントへ行って何をするのか?」といった質問など、キラにはどう答えていいものやら判らない。インタビューの相手がミリアリアだからこそうっかりした話の融通はきかせてくれるものの、そういった細かい事情に配慮することに慣れず、キラの口は重かった。
もっとも、そんなことはすでにミリアリアに見抜かれていて、キラが返答に詰まるような質問は避け、避けきれないものはアスランにふった。アスランは深く突かれた質問にも“嘘をいわずに”流すことをして、やはり顔色のひとつも変えることがなかった。ほとんど録り直しをすることなくインタビューは進められた。
「───ありがとうございました。もうけっこうですわ。准将方」
質問用のリストをチェックしながら、ミリアリアが丁寧に告げる。レコーダーを止めると、いつもの明るい笑顔をキラとアスランに向けて、「お疲れさま!」といった。
「あ…、あと写真……だよね」
「なぁに。まだだめ?」
キラの沈んだ声音に仕方ないといいながら、ミリアリアはちらりと時計を見た。
「少し時間も残ってるし…。キラ、アスランとくだらない話でもしてなさいよ。緊張しないような内容で」
最後のひとことはアスランに顔を向けていった。急に課題を渡されてアスランは一瞬ぽかんとする。
「ミリアリア、そんなことふったら、今度はアスランが緊張するってば」
それもそうね、とミリアリアが高笑いをする。つられてキラも笑った。たったのひとことでからかいのネタにされたのだと気がついたアスランは、ひとり憮然とした顔をした。

「答えにくい質問が多くてわるかったわね。取材の内容まで任せてもらえなかったから…」
緊張の緩んだキラにフレームを合わせながら、ミリアリアはアスランに話しかける。キラは自然とアスランに視線を移し、さっきのようにカメラを気にしなくなった。
「いや、問題ない。…きみがきてくれて助かった。何しろキラがこの通りだから」
今度はキラがむくれる番だった。ミリアリアは、とても広報誌に載せられないこの表情も含めて、キラの笑顔をいくつもカメラに収めた。こんなにほがらかでやわらいだ顔は学生だったとき以来ずっと見ることがなかった。戦争の緊張も消え去り、自閉していた頃のぎくしゃくとした微笑みのかけらもなく、心から和んで笑っている。
むしろ今のほうが、抱えているものは大きいだろうと思うのに。
ときおり剛胆なことをしでかす親友が今度は何をしようとしているのかなど、彼女には本当の意味では理解できていない。どんどん遠くへ、先へ行ってしまうということだけは知っていて、とにかくその背中から目を離すまいとは心に誓っているのだが。
ただ、彼はひとりで行こうとしているわけではない。今も横にいるアスラン・ザラが、キラの傍にいて支えてくれるのだろう。ひとりずつでは心配でも、ふたりが一緒であれば「まぁいいか」と任せる気持ちに、少しは思うことができた。

しかしこの場ではどうだろうか。流れるままキラとアスランに会話を任せていたが、どうもさきほどから少し不穏な空気になりつつあった。
「キラ、子供みたいよ。仕方ないじゃないの」
彼女としては親しいほうの友人を嗜める口調で割り込むしかない。キラはどうやら家にとんと帰らないアスランを非難したいようだった。
「家だって近いのに。官舎の仮眠室まで歩いていくのと、何分も違わない」
なのにアスランは、とぶつぶついっている。アスランがこの数ヶ月、もしや来月も、プラントとの条約や同盟のために忙殺されているのはミリアリアも知っていた。今日の取材も調整はかなり困難だったのだ。
「連日深夜に帰ったりしたらアスランだって家の人に気を遣うでしょうに」
そのひとことにキラは、「そうかもしれないけど」とつぶやくようにいいながら手元の制帽をぐしぐしといじりはじめた。アスランはといえばそんなキラをただ困ったものを見る視線で黙っているだけだ。これではまったく、仕事ばかりする夫を責める新妻の姿だ。
オーブへ落ちついてから半年ほどのこのふたりはまったくどうだろうと思わせるほどに仲がいい。確かに以前から仲はよかったのだろうが、いくらかの薄い壁も見えていたように思う。新婚の惚気にあてられるのはムウとマリューだけで充分だというのに、と思った自分の想像にはっとして、ミリアリアはもう堪えきれずに大爆笑をしてしまった。
ひとりで突然大笑いを始めたミリアリアを凝視してキラとアスランは固まっている。
「あはは、ご、ごめん! ……ねぇ、キラ、でもしょうがないって判ってるんでしょ? 家の中で悪者にしたいんじゃないんだったら、アスランを助けてあげなさいよ」
キラは一瞬目を丸くして眉尻を下げた。ようやく、わがままをいって彼を困らせていると判っただろうか。
「そんな、悪者なんて……。そんなんじゃないよ、アスラン」
「判ってる」
そういって交わしている視線も甘ったるいことこのうえない。真実を素直に映すフレームを通さなくても、彼らが思い合っていることはミリアリアには見えている。ブラックに淹れられたコーヒーに手をつけることなく、ミリアリアはカメラを抱えて立ちあがり「甘くておいしかったです。ごちそうさま!」とその部屋を後にした。


C.E.74 5 Sep

Scene ヤマト家〜オーブ軍官舎・1102号室

先日のミリアリアの助言を素直に容れ、キラはアスランが官舎に居を移すことを了承した。ただし、しつこいくらいに「今だけだからね!」と念を押し。さらには、週末はきちんと休暇を取りヤマト家へもどることも約束させていた。
「指切りげんまん、嘘ついたらぜったい針飲ます!」
アスランの目の前に小指を突き出し鼻息も荒く強要するキラに、彼は呆れた顔をしながら、それでもキラの小指に自分のそれを絡めた。

「それでキラはどうするの」
その最初の週末、キラが面白くもなさそうにキッチンでニュースを見ているとテーブルの向かいに座るカリダが突然そういった。
「え?」
前後の脈絡なく、どうするといわれて答えようもない。
「キラも一緒に大変なんじゃないの?」
ああ、アスランのことか、とキラは思う。アスランはゆうべ一度ヤマト家へもどり、カリダとハルマにも事情を丁寧に説明して週末だけの一家団欒に了解をもらっていた。しかし、今週の彼には“週末”も“一家団欒”もなかったらしい。つまり、そのあとまた軍へもどり、帰ってこなかった。
「なに見てるんだか。ぼくは休日返上するほど、軍に行ってないでしょ」
「あらそう? でも一緒にいて助けてあげたら?」
就いている仕事の内容が違う、と反論しようとしたキラに、カリダが追いかけて「仕事のことじゃなくて」といった。
「助けるっていっても。アスランが世話焼くだけなの母さん知ってるでしょ」
「それもそうね」
───あっさりそういわれても、なんか嫌だし…。
だが、少なからずキラにもそうしたい気持ちはあった。軍に行けば会えるといっても、それは互いに肩書きをもったままなのだ。住まいを別にしてしまえば、アスランとキラとして会える時間が本当になくなってしまう。
「家に帰って愚痴のひとつをこぼすでも、誰かいてくれるだけでいいことがあるんじゃないの?」
「……うん。それは、……うん…」
「急にひとりになって、アスランくんも寂しいんじゃない?」

「……て、母さんがいうんだけど」
「………………」
軍に用意してもらった官舎の一室、1102号室へ突然訪れたキラは、「昨日のことなんだけど」とその母親との会話を説明した。
「…………ど? ……それ、で?」
「うん。ぼくどうしたらいい?」
「……………」
アスランの思考はあまり回転していなかった。休日ではまだ朝も早いといえるこの時間。アスランはもう少しゆっくり眠ってその疲労を癒し、午後からヤマト家へ帰宅するつもりだった。通常には週末二日の休日、一日目の昨日は残念なことに無理だったが、しょっぱなから約束した週末の団欒を裏切るのは嫌だった。
そこを叩き起こされて、そのうえにキラのよく判らない訪問理由だ。
「……おれに決めさせるのか?」
「広いね!」
「は?」
会話が繋がっていない。
「もっと狭くて汚くてとか。仮眠室とたいして変わらないんだと思ってた」
「…学生寮じゃないぞ…」
それに一応ここは高官用のフロアだから、と断りをいれると、キラはいいなぁといった。
「ふたり住めるくらいだよね、広いから」
「……………」
キラの期待した眼差しでいわんとすることは判ったけれども、だったら何故素直にそういわないのかがアスランにはよく判らなかった。
「それは家族で移るケースも少なくないし…この部屋は単身用みたいだけど。…じゃなくてキラ、どうしたいんだ?」
「アスランは?」
「……………」
意図は判らないが自分にいわせたいのだということは、理解した。まだ眠い頭で。
「……判った。休みが明けたら申請しておく……同じ部屋でいいのか?」
「違うの? それ意味なくない?」
周りは他意をもつまいが、キラとふたりきりの部屋になることに多少の後ろめたさを感じて、アスランは若干のためらいがある。
「……いや……部屋を隣にすればたいして変わらないし」
「いや、変わるでしょ」
「……………」
とりあえず、これ以上の会話は不毛に感じ、アスランは諦めてバスルームに向かった。まだ寝間着のままだった。

顔を洗って身支度を整えていると、リビングからコーヒーの香りがしてくる。さきほどほったらかして置き去りにしたキラだが、勝手知ったるとでもキッチンで豆を探し出し淹れてくれたのだろう。
「アスラン、牛乳ないの?」
キラは自分のコーヒーにいつもたっぷりと牛乳を入れる。昨日の今日でこんな訪問があると思わないから、それを知ってても当然用意しているはずがない。
「ごめん、ないよ」
さっきまでの眠そうな顔をすっかり切り替えアスランがリビングにもどると、キラはまだ片付かない荷物が雑然としている床のうえにコーヒーカップをふたつ並べ、その傍らに座っていた。そうして残念そうな顔をアスランに向けている。
「砂糖いるか? 料理用のならあるから」
ブラックが飲めないわけじゃないし、とそれは断ってキラはコーヒーを少し啜った。アスランはその横に座り込み、同じようにコーヒーカップを手に取る。起き抜けにキラが淹れてくれたコーヒーを飲むなど、初めてのことじゃないだろうか、とアスランは思う。こういうことが、これから何度もあるのだろうかとあたたかな期待でふくらむ。
だがよくよく考えれば、今また一緒に住むことを決めたとしても、まもなくふたりは別れることになるのだ。アスランはすぐにキラを追いかけてプラントへ行くことになってはいるが、向こうで一緒に生活することまでは、その立場の違いを思えば叶えられないかもしれない。
───こんなことが、何度もあると思っちゃいけないな…。
そうであれば、このコーヒーも味わって飲むべきだろう。のんびりとした空気でカップに視線を落としているキラを眺めながら、アスランは少しだけ寂しい気持ちになった。
「キラ」
名前を呼んでキラの視線を向かせると、静かに体を寄せてその唇に軽くくちづけを落とした。鼻先を触れさせたまま彼の表情を窺うと、慣れないといいたいのか、戸惑いの色がある。
ふたりは半分けんか腰に思いを通じ合わせてから、まだ数えるほどしか唇を合わせてはいなかった。ひとつには、ふたりきりになれる時間がほとんどなかったこともあるが、何よりも幼馴染みで育った親友と思うと、どこか気恥ずかしさが残るせいもあった。
「…アスラン」
だが、キラの戸惑いに揺れる瞳は扇情的でもあった。恥ずかしいから、と告げるために名を呼んだ響きもどこか誘いを感じさせる。そんなはずはまったくないと思いつつもアスランは誘われて、二度目のキスをしかけた。


C.E.74 14 Sep

Scene オーブ軍本部・アスランの執務室

深更となっても明かりの灯るオフィスを見るに、真面目な彼であれば仕事に傾注しているのだろう、と誰もが思う。実際には片づけるべき仕事は二時間も前に終えていて、アスランはただだらだらと居残っているだけだ。理由といえばなんということもないが、官舎の自室にもどってもキラがいないからというのが、たぶん、いちばん大きい。
それでもいよいよやることがなくなって、重くなった腰をあげると同時に彼の執務室を訪れる者があった。来客に反応して、アスランが気がつくより早く彼の肩にあるものが動いて報せた。
「あれ、トリィ」
声のほうを見れば、ドアの前に目をまんまるにしたカガリが立っている。
「カガリ。どうしたんだ、こんなに夜遅くに」
「官邸に帰る前にちょっと寄ってみただけさ。それよりなんでいるんだ?」
「いる」とはアスランのことではなく、彼の肩にとまるトリィを指している。
キラは今朝方、衛星軌道──つまり宇宙に三日間の出張へと発ったが、その出がけに「なんだか調子がわるい。診て」といってトリィをアスランに預けていった。ばたついていて何がどう調子わるいのか訊きそびれ、今日は一日傍に置いて様子を見ていたのだ。幸いデスクワークの日だったので、鳴き声の音声をオフにしてしまえばかまわないだろうとオフィスに持ち込んだ。
「まさか、キラがいなくて寂しいから代わりに、なんてのじゃないだろうな?」
半分本気でそう思ってるといいたげな笑顔でいうカガリに、不興を隠さずひと睨みし「何いってるんだ」と否定する。
この場にいるふたりは数ヶ月前まで、噂でいわれていたほど甘いものでもなかったが、それでも周りの人間が気がつくくらいの関係を築いていた。それなのに今、なんのわだかまりもなくこうした会話ができるのは、ひとえにカガリのおかげといえた。

『おまえら、離れちゃだめだ。離れるな』

ギルバート・デュランダルを討つべく地球を発つその前日に彼女がアスランにいったことば。
カガリは、アスランがその戦いへの迷いを拭いきっていないことに気がついていた。このままではいけないが、こうすることも疑問なのだと、アスラン自身でさえはっきりと形にできていないことを、彼女は何故か理解していた。正しい答えはどこにもない。答えは永遠にでない。ならばキラの傍にいろ、と。カガリはそういった。
翌日彼女はアスランが贈った指輪をはずし、また、それ以来ふたりの間にあった甘い距離がもどることはなかった。いつまでも何においてもはっきりとできない自分を、見限ったというわけではないだろうが、合わないペースにもどかしかっただろうことはアスラン自身にも想像がつく。おそらく自分では曖昧に感じている本心の、その奥に固まっている答えすら、彼女にはとうに見えてしまっていたのだろう。

要するにこの世にある女性というものは察しがいい。キラがいなくて寂しいというのは、事実でもあった。見抜いた様子でカガリがトリィをつつきながらつぶやく。
「出張からもどっても、またすぐにプラントだな、キラは」
そして、プラントへは二、三日という話ではない。地球へひとり残ることを考えれば、カガリがいちばん寂しいといえるかもしれない。
キラが、カガリを自分のやろうとしていることから遠ざけようとしているのは判っている。危険が伴うことでもあるからだ。国家元首という何より守られる位置に安心して、キラは彼女にそこから動かないで欲しいと望んだ。もちろんそんな彼の思惑は置いても、カガリは自分のすべきことのためにそこから動く気は毛頭ないだろう。
ただ、彼女本来の大きな好奇心がSEEDに向いていることもまた事実だった。「ナチュラルの披検体が足りない…てことは、ないかなぁ」などと、キラにいいよっている姿もつい先日見かけていた。油断すれば視察のなんのとかこつけて、プラントへやってくるような気がしてくる。冗談まじりにそんなことをいえば、心外とばかり彼女は口を尖らせた。
「ふん、いってろ。わたしだってな、忙しいんだぞ」
だが、その表情を翻して瞬間真面目な顔になる。
「なぁ、遺伝って、関係あると思うか?」
「進化という定義なら、あるんじゃないのか」
「だったらわたしも、訓練とかでキラみたいになるんじゃないのかな」
キラのSEED発現の状態維持は特異だ。カガリはその特異性を自分ももつのではないかと、そういいたいのだ。

現在SEEDを“もつ”と報告のある全員が、発現状態について自在なコントロールができていないことが判っていた。ましてや、発現を自覚できない者もいる。どちらかといえばアスラン自身もそうだ。戦闘の興奮状態で覚えていない、ともいえるのかもしれない。
だがキラはその覚醒をはっきりと自覚しており、さらにその状態を自分の意識でコントロールできているという。SEED研究開発機構でいちばんの披検体といわれる所以だ。
同じくSEEDを“もつ”といわれたカガリは、やはり自覚のないタイプではあったが、彼との血の繋がりから自分自身も研究に協力すべきではないのか、と真剣に考えることがあるのだろう。
「カガリ、シードコードを始めたのはキラだ。ただキラが知りたいといって始めたことだろう?」
アスランのいう意味が読めないのか、訝しげにカガリは眉をひそめた。
「カガリが未来への貢献にそんなことを考えても、キラには通じないよ」
アスランに視線を固定したまま動かない彼女の思考はくるくると働き、次には目の前の相手のいわんとすることを悟ってこぼれるほどに瞳を見開いた。その様子につい笑いながらいう。
「あいつがわがままなのは、知っているだろう?」
キラが恣意だけで動いているのだと暗に告げ、またそれをまったく許容しているかのようなことをいうアスランに、カガリは「おまえも苦労性だな」と大きなため息とともにいった。
「苦労?」
「そうだろう。くそ真面目なおまえが、そんなことを本当に許しているとは思えない」
───ほら、女性は察しがいいのだ、とアスランは感慨深くなる。
それは事実で、諦めていることでもあって、だがアスランはそれでもいいと決めてキラの傍にいるのだ。
ゆったりと微笑んでいるアスランの開き直りっぷりに呆れたのか、カガリはその笑顔にことばもなく大きくため息だけを吐く。そんな彼女の感情の動きに反応して、アスランの肩でトリィがパタパタと羽をばたつかせた。


C.E.74 17 Sep

Scene オーブ軍官舎・1102号室

アークエンジェルの新エンジンやストライクフリーダム用のランチャーなど、短い期間にキラが開発に携わったものは多くあった。いずれも細かいものだったとはいえ、予定の工期をいくつも繰り上げ急いだのは、キラがじきにプラントへ行ってしまうからだ。出発を目前にして宙域でのテストなど他人に任せればよいものをと周りは引き止めたが、それは製作者としての責任でもあるし、フリーダムのものはキラでなければどうしようもない。なんとか予定を調整して三日半のテスト航行へでかけ、幸いにも良好な結果でほくほくと大気圏内へもどったのはつい三時間ほど前のことだ。

本当のところ期待していなかったのだ。出迎えなど。
一応、「もどったからね」とアスランにメールは入れておいた。彼がとても忙しいことは知っている。忙しいのであればそれを見るもの日付を越えて帰宅直前のことなのだろう、とキラは予測していた。だから、カグヤ島の宇宙港から真っすぐに官舎へ帰宅したキラは、夜中といえるこの時間でも同居人がもどっているなど、まったく頭になかった。
それなのに部屋の玄関にカードキーを通してドアを開ければ、室内は煌煌と明かりがついており、こちらの物音を聞きつけたアスランが笑顔とともに「おかえり」といってキラを出迎えてくれた。
「アスラン…まだ帰ってないと思ったのに」
それには応えないで呆然とするキラを双手に抱きしめてくる。
「おかえり、キラ」
耳元で再度囁かれ、キラは慌てて「ただいま」と応えた。アスランは挨拶にうるさく、返事をしないといつまでも「おかえり」をいわれることになる。そうこうしてキラが思わぬ出迎えに感激する暇もないままアスランはぱっとその体を放し、先に立って室内へと入っていった。それを追いかける彼へ、トリィは直しておいたぞ、と背中越しにいってまたキラを驚かせた。
「そんな時間あったの、アスラン」
リビングに足を踏み入れるとトリィが鳴いて主人の帰宅を歓迎する。さらに驚いたことは、ついさきほどまでアスランが作業していただろうと思われるテーブルに広げられた数々だった。
「……なにこれ…新しいハロまで作っちゃって…」
「キサカ一佐が条約策定委員会に入って、いろいろ負担を引き取ってくれたんだ。おかげで時間ができた」
C.E.75年から勤務が開始されるプラントへの派遣外交官リストにアスランが正式に入ったため、今のままではその準備もままならないとキサカが気を遣ってくれたとのことだ。
「プラントへ行く準備といっても…これしか思いつかなかった」
アスランは自嘲気味にテーブルにあるハロの作りかけを指差していった。ラクスのプラント帰還が決まったときから作ろうと考えていたらしい。何かの記念があれば彼女にハロを贈るのは、もはや習慣となっているようだった。傍目にはこういうのを“恋人への贈り物”とみるのだろうが、アスラン自身にそういった意味がすっぽりと抜けているところが実に不思議だ。
キラは荷物をそのへんに放り出してソファに座ると、さっそく彼の作品を観察した。製作途中のハロを見るのは初めてだ。
「壊すなよ」
いい置いてアスランが放り出した荷物を片づけてくれる。いつもなら小言がふってくるところだが、今日はサービスしてくれるらしい。
そのあとアイスココアを片手にもどったアスランは、キラにそれを手渡すと正面に座ることなくソファの隣へ無理矢理割り込んできた。
ふたり掛けとはいえ少し窮屈だなぁと文句をいおうとするが、アスランはそうして頼んでもいないのにキラの手に収まっている作りかけのハロの構造の解説を始めたので、キラは考え直して口を閉じる。
ハロにはひとつひとつ違ったおまけ機能を仕込んでいて、今回はこうしてみたとか、このあたりがうまくいかないんだとか、夢中になって話している。アスランは昔からこうした“熱中癖”があった。急にもてあます時間ができ、キラにトリィの修理も頼まれたきっかけもあり、つい工作ごとにハマってしまったのだろう。キラは話を半分ほど聞き流しながら、変わらないなぁとしみじみ過去に耽った。
「色がまだ決まってないんだ」
たいていの色はもう贈ってしまっていて、あとは基本色のバリエーションか、はたまた二色にしてみるとか、悩ましいところなのだという。
「ラクスに決めてもらえばいいんじゃない」
本人の希望に添うのは、それはまちがいなくいちばんであろうからとキラはアドバイスした。キラがそういうなら、とアスランは提案を容れて、「今日はもう終わりだ」と片づけを始めた。とはいってもなくしやすいパーツ類をまとめて工具箱に仕舞う程度のもので、明日にも続きをやるつもりなのだろう。
そうして三十秒にも満たない片づけが済むと、アスランはそのままキラに向き直って強引に肩を引き寄せた。
「うわ」
急に抱きしめられてバランスを崩しそうになり、そのまま彼へ倒れ込む。アスランといえば、近づいた顔を幸いにとキラの頬や額にいくつもキスを落とした。
「え…う……ちょ……やめてよ、アスラン」
「うん」
素直にそう返事をしてキスは止めてくれたが、抱きしめる腕は緩みそうになく、そのままキラの耳元に顔を埋めたまま動かなくなってしまった。
「……アスラン、もしかして寂しかった?」
突然の過剰なスキンシップに、頬が熱くなるのを感じながらも訊ねると、そうかも、と囁かれた。
「“かも”じゃなくて…寂しかったんでしょ」
「………………」
「……仕事が忙しくて顔も見ないことなんて、今までにもけっこうあったじゃない」
「…そうだけど」
アスランは、キラが先にプラントへ発ってしまう日のことを想像して思いを募らせているのかもしれなかった。予定ではその一ヶ月後にアスランもプラントへ行くのだが、ふたりの心が近づいた分だけそれを遠く感じてしまうのかもしれない。実際、キラも同じ思いがあった。
アスランはようやくキラを放して少しの距離をとった。狭いソファのうえの距離など、たいしたものではないのだが。
「置いていかれる気分がする」
思いがけず拗ねた子供のようなことをいわれ吹き出す寸前だが、彼の真剣なまなざしにそれを押しとどめる。どうしたものかと思うが、キラはふと思い出した過去を引き合いに出す。
「…そんなこといってさ、アスラン。きみだってぼくのこと置いてったことあったでしょ。二回も」
コペルニクスで最初に。次はつい一年ほど前、勝手にザフトへもどったときだ。
「そんな…好きで置いていったわけじゃないし…だいたいこのあいだのときは、おまえおれのものじゃなかっただろう?!」
「カガリも置いてったよね?」
「………………」
キラのわるふざけにアスランはことばに詰まる。先走って迷走したあの頃のことは、いまだ周囲の面々に頭のあがることではない。アスランの反省を思ってキラはあまり蒸し返すことはしないが、距離が縮まるとつい遠慮が薄くなることもある。さすがに傷をいじったと思い、キラは「もどってきたから、許すけど」と、つけ加えた。
口の重くなってしまったアスランの目を見ることができず、手元に落ちている彼の手を拾ってそっと握った。すぐに絡んでくる指先が、少し体温の高い彼のぬくもりを伝えてくる。
「さきにプラントへ行っちゃうけど、待ってるからね、アスラン」
そっと表情を窺うと、やはり寂しい、と訴える瞳がキラを見つめている。
「……キラ」
この瞬間にも自分を呼ぶ彼の優しい声が何より好きだと感じていた。
離れることが寂しいなど、アスランに負けないくらいにキラも思っている。不調で留守番にしてしまったトリィも傍になく、この三日間をキラがどれほど長く思っていたか。
彼に「寂しい」などと愚痴をいわれる筋合いはないのに、とキラはそっと心の中でつぶやいた。


C.E.74 21 Sep

Scene オーブ軍本部・本部棟食堂

「え?! マリューさん、退役するんですか?」
「…まったく…なんでおまえがそれを知らないんだよ。同じ所属だろう」
「アスランだって知らなかったくせに」
「そ……っ…。仕方、ないだろう、こないだまでずっと官邸に拘束されてて…」
「そこ、情報がいちばん落ちるとこじゃん」
さきほどからキラとアスランのじゃれ合いが目の前で展開されていた。マリューはにこにこ、ムウはにやにやと、その様子を眺めている。
四人揃ってでは久しぶりの昼食だった。主にはアスランが不在であることが多く、もうオフィスをヤラファス島にしたほうがいいのではないかという毎日だったが、この頃は少し余裕があるらしい。
珍しく見かけたふたり一緒の席に割り入ったものの、隣に座りあう彼らの睦まじさは新婚の自分たちに負けず劣らずの様子だった。それでもときおりアスランのほうが自制してみせる努力がなんとも微笑ましく、破顔したままことばを挟むことなくふたりのやりとりを眺めて楽しむ。横にいるムウと目線を合わせると、彼も同じことも思っているように微笑んでいた。

マリューが彼らと出会ってから三年が経つだろうか。
身近にはなかったコーディネイターであるキラにはさまざまな衝撃を受けることも多かったが、中身はごくふつうのどこにでもいる少年だった。アラスカで死線を乗り越えて現れたときにはいささか冷めた印象を伴ってきたが、アスランがアークエンジェルと共闘を始めた頃には、また年相応の少年らしさを垣間見せるようになっていた。それはもちろん、今のようにアスランと一緒にいるときのことだ。
幼少の頃に結んだ絆の深さはいつでも過去へ引きもどすのに違いない。
いつかアークエンジェルの展望室で、近づく月の都市をふたりでただ黙って見つめているのを見かけたことがあった。肩を寄せ合って、本当にことばもなく、思いを馳せるようにゆっくりと迫る月に視線を送っていた。実際には会話もしていたのだろうが(実際、マリューは話し声を聞きつけその場所へいった)、ことばにのせる必要のない記憶をふたりは共有しているのだ、とその時マリューは知ったのだ。
そうして、今も自分が彼らから目を離すことができずにいるのは、そんな彼らに憧憬を抱いているからだと思っている。

マリューがひとり思いを巡らせていると、アスランをやり込めて満悦らしいキラがこちらのほうを向き、難しい顔を見せた。
「マリューさん家庭に入るってことですか? …プラント、いかないんですか?」
早とちりするキラに彼女は慌てて「いくわよ、もちろん!」と答える。マリューはオーブの特命全権大使として、プラント行きメンバーの筆頭に名を連ねていた。
「大使が武官っていうのも殺伐とした感じだからって。…ね?」
そういって視線を向けた先のムウが頷く。同じく彼は大使館付武官補佐官に決定している。
「確かに今後ザフトとは、そういう結びつきが強くなるんだろうけどな。まぁだからこそ、多少は柔らかく見せたいってものだろ、とくに“地球のみなさん”にはな」
地球連合の力が衰え、あたりは弱くなったとはいっても、オーブとプラントの軍事同盟の決定に連合加盟国からの批判は続いていた。地上での勢力図が描き変わる事態なのだから仕方のないことではある。できるだけ穏便にまとめるため、オーブの外交筋は日々頭を悩ませている。
そういった中にスタンドプレイともいえる交渉をプラントに持ち込んだことで、政治家からのキラに対する圧力は多い。もはや国の枠が視点にないキラにとってはどうにも小さな嫌がらせなのであろうが、朗らかに見せている影で心労が多いことをマリューは知っている。アスランが唯々諾々とカガリの要請につきあい、軍務よりも政治的立場に寄った活動を続けていたのも、ひとえにキラを守ろうとする所以ではないかと思っている。
そしてふたりのどちらも、そうしたことを指摘しても互いの相手を見て否定するだろうことは判っていた。

プラントへ行っても別の問題があるだろうことは容易に想像できるが、少なくともオーブにいるよりはいいのではないか、などとマリューは考えてしまう。ささやかにはあろうとも、彼らが互いに気を遣うほどでいなければならないことなど、彼女にとってはそちらのほうが理不尽に思えてくる。
「じゃあ、退役パーティしませんか?!」
耳に飛び込んできたキラの明るい声は、そうしたマリューの不満や心配をかき消した。自分には彼らを信じる力があり、それが彼らへの力にもなる。あなたたちの味方だ、と見せることしかできない自分にとっては、このあとのこともそうして見守ればいいのだと思う。
「あー、それはもう確かミリアリアが動いてくれてるな…。でも日程はキラがプラントへいったあとじゃないのか?」
退役はプラントへの異動直前になるので、キラがオーブを去ってその一ヶ月後のことになる。ムウの残念な発言に、キラは「えぇー……」とデザートスプーンを子供がするように口にあてた。アスランはそれを見て早速「キラ、行儀がわるい」と小言をいっている。
「あら、わたしは二回お祝いしてくれるっていうなら、やってくれてもぜんぜんかまわないのよ?」
マリューの意見にふたたびキラの目が輝く。ムウがそういうことなら、と提案を出した。
「じゃあ、あれだ。キラの壮行会とマリューの退役記念てことで。来週どっかで一緒にやるか?」
賛成!と大声を出したキラに、食堂内の注目が集まる。さすがにしまったと身を縮めるが時すでに遅く、彼の隣の親友までが呆れながらも少し恥ずかしそうにしている。
その一瞬前、「キラの壮行会」ということばにアスランが微かに反応していたことを、マリューは正面に座る席から認めていた。

キラのプラント出発は十日後に迫っていた。


C.E.74 22 Sep

Scene オーブ軍官舎・1102号室

───人の気配に、目が覚めた。

常夜灯は点けていないので、遮光カーテンの隙間から漏れる月の明かりくらいしか、目に入る光がない。そんなほぼ真っ暗闇の状態で、そこに立ち尽くす人影だけが見えている。シルエットで誰かは判る。
「……アスラン?」
部屋の入り口でずっと動かなかった影は、キラが声をかけると微かに揺れて、キラの傍まで静かに寄ってきた。
ぎしり、とベッドのきしむ音がする。
アスランは横たわったままのキラの傍に片手をつき、顔を寄せた。至近距離になり、ようやくその表情が見える。…が、それを確認できないままになってしまったのは、見えなくなるほどにアスランとの距離が縮まったことと、口元に感じた彼の吐息の熱さに、思わず目を瞑ってしまったからだった。
───アスラン。
キラは戸惑って心の中でアスランを呼ぶ。どうしたの、と。声にだして呼ぶことはできない。吐く息をすべて、アスランの唇に奪われていたからだ。それは誘うための、優しい、くちづけだった。
自然にキラの片腕があがり、アスランの肩を静かに抱く。挿し込まれた舌を吸って応じる意思を伝えると、くちづけはすぐに情熱的なものに変化した。
急激なことについていけないキラの戸惑いをよそに、アスランは身体の上へ覆いかぶさり、その体重を乗せてくる。激しく絡めてくる舌の力強さで息を乱し、自然と喉の奥が鳴る。アスランの左手はキラの頭を押さえ、顔を背けて逃げることも叶わない。アスランの突然の行為が嫌なのではなく、ただ、乱された息を整えたかった。本能的な動きだったのに、まるでいうことをきかせようとするかのように、右手はキラの左肩を押さえつけた。
「…………は…」
ようやく唇が離れ、思いきり酸素を吸い込む。だが、アスランがキラの身体に与えはじめた刺激のために、今度は自ら息を詰まらせ、そのために喘ぐことになった。

ゆっくりと時間をかけ、素肌のすべてにアスランが触れた。さんざんに高まりまで攻めたてたその口で、限界を訴えるキラに容赦ないひとことを落とす。
「だめだキラ。一緒が、いい」
それが、アスランが部屋に入ってきてから最初に発したことばだったことに気がついて、キラは少し、笑った。
けれど、そのあとはそんな余裕も消し飛ぶ。キラが求める中心には触れずに、アスランが求める箇所を焦らすように慣らされて、いわれたことばの意味も存分に思い知らされた。
三年前に交わしたあの熱とは比べようもないほどの、情熱。キラがふたりの関係を押しとどめてから、その間に、いつのまに、アスランはこれほどの熱を育てていたのだろうか。そのせいで余計に彼の熱をあげてしまったのではないだろうか。
だとすれば、このまま燃やされて、融かされて、死んでしまっても、仕方がない。自分がわるいのだから。

───アスラン…。

切なくて、何度も名を呼ぶ。
悦楽に眉を寄せて、激しく息を乱す彼の名を。
見おろしているその表情は艶かしく、優しくて、そして少し微笑んでいた。
もっと欲しくて、キラはその頬に双手を伸ばす。届いた指をとられて口に含まれ、音を立てながら味わう彼の姿が、朦朧としたキラの瞳に映っている。甘噛みされた指に伝わる刺激は不思議なことに背筋を通っていった。あからさまに感じているのだと判る喘ぎがこぼれて、アスランの微笑みはますます艶を帯びる。
終わりがくるのか判らなくなるほど長く愉悦に浸り、アスランが告げた望みを達したのは、キラが我を忘れて彼のその肩に深い爪痕を残した瞬間だった。

───朝の光で、目が覚めた。

カーテン越しの薄い光は、それでも白いシーツに反射してまぶしさをキラの目に落とす。眠い目をしばしばとさせながら、不自然に空いたとなりの空間をじっと見る。それ以外はいつもの朝の光景だった。
眠る前の暗闇にあった甘い時間は、今映るものとあまりにもかけ離れた世界だったような気がして、不自然に重く感じるこの身がなければ夢でも見ていたかと思うところだ。
部屋の向こうには、やはりいつもどおりの人の気配とコーヒーの香りがある。キラは自分の身体に残された痕跡を見ないように努めながら服を身につけた。
「おはよ」
「…おはようキラ」
いつもどおりに挨拶をして、いつもどおりにふたりで朝食を摂った。今日はシフトも同じなので一緒にでかける。少し構えて交わした朝の挨拶から、予想に反してアスランはまったくいつもと同じだった。ゆうべのことは「変な夢を見た」程度の遠い感覚になる。
ふたりの部屋のフロアからエレベータに乗って一階のボタンを押した。玄関を出てからここまで他の人間に会うことはなかったが、それでも家の中とは違うのでふたりとも口を噤んだままでいた。
「ゆうべは…」
何かをいおうと思っていったわけではなかった。ただ、ころりと日常にもどれたことに、ゆうべはなんだったのかな、という気持ちがつい独りごとになってキラの口に上ったのだ。
静かなエレベータの中で、小さなつぶやきはしっかりと隣に立つ人の耳にも届いている。しまったと思いながらちらりとアスランの顔を覗き見ると、困惑をのせた表情でキラのほうを見ていた。
「………………」
複雑さを表したその顔にキラは口を開けたまま声が出せない。そうしているうちにエレベータがエントランスフロアに到着し、ドアが開いた瞬間に「ごめん」、とアスランが小さく囁いた。先に降りた彼のその耳が、赤く染まっているのが見えた。

「…謝らなくていいのに。ぼくは、嬉しかったし」
微妙に早足なアスランのあとを慌てて追いかけてそう話しかけると、
「…ちょっと一方的だったかなと思って…」と、小声のままの返事がかえってくる。
「べつに、嫌なら嫌だっていうし。そしたらきみだって無理にはしないでしょ」
「……それは、そうだけど…」
いい澱む声は自信がなさそうだった。アスランはゆうべ、何度かキラの嫌がる声を無視して強引にしてきた記憶がある。キラは判っていてちょっとしたいじわるでそういった。困って照れているアスランが、どうしようもなくかわいい。
「……本当に嫌だったら、殴っていいからな」
「判った」
そんな瞬間がこないよう祈りつつ、ふたりは軍本部のゲートをくぐった。