Evergreen Interlude

C.E.74 26 Sep

Scene オーブ軍官舎・1102号室

首筋に残した刻印が、今日はもう消えていた。
よくよく見れば、まだ微かに痕は残っているのかもしれないが、今ふたりが座っているこの距離では見えていない。アスランは毎朝ダイニングテーブルで向かいあったときに、キラのそこを確認する癖がついていた。
「最近、プラントのニュースは通信状況わるいね。今の半分くらい何いってんのか、判んなかった」
キラは五日後、プラントへいく。
こんなふうになんてことのない会話を毎日することは当分できないだろう。また、そんな毎日がもどる可能性すら、あるか判らない。アスランは不安や寂しさをそれほど感じているわけではなかった。ただ、胸を詰まらせる切なさだけが、それを思うとあるというだけで。
だが、それだけのこと、とはいえない。
切なくて、たまらなくなって、キラを抱いたのが、四日前。

「アスラン」
「──え?」

少しばかり自分の考えに没頭していた。キラは返事のないことに「座ったまま寝てるんじゃないだろうね」といって笑っている。その笑顔につられてアスランは自分の頬も緩むのが判った。
「起きてるよ。キラ、今日は?」
「あー…。遅くない。たぶん。アスランは?」
「おれも。たぶん」
同じ宿舎で寝起きするようになってから、すぐにふたりの生活リズムができた。朝はこうして互いの帰宅時間を訊ねる。おおむね予定通りにならないので必ず「たぶん」がつく。
「どちらも早いなら帰りは一緒に買い物へいくか。…そろそろ」
「うん、そうだね。リストたまってる」
キラは冷蔵庫に貼ってある買い物リストのメモを取り、アスランに渡した。

いつものように、ふたりで歩いて軍までいく。ほんの十分くらいの距離だ。子供の頃も、ふたりはこうして学校に通った。くだらないことを話しながら。今も変わらない。
仕事が終わり、正門で待ち合わせて一緒に帰る。寄り道で買い物をして。それも子供の頃と同じだ。寄り道の先が違うだけで。
昔とは明らかに変わってしまった関係だけが、浮いているように思えた。
───キラを、もっと抱きたい。
それは、恋人を相手に感じるあたりまえの欲求だった。アスランは決して淡白なほうではない。ふたりきりでいる時間もこんなにあって、想いも通じていて、それなのに、まだ一度抱いたきり。
アスランは戸惑っていた。
ただのともだちでいた期間が長過ぎたということだろう。正直にいって、手を出し難い。おまけにキラは快活な男子で、その健康的な雰囲気がいつも自分の不健康な気持ちを萎えさせる。というか、後ろめたくさせる。いっそキラのほうから誘ってくれないかとすら思う腑甲斐なさだが、一方の彼は淡白に見えて、「一緒にいられればそれだけで倖せ」などといい出しそうな感じがする。
気の毒なのは、アスランは悩み事をひとりで抱え込む癖があり、何事においてもひとりでなんとかしようと、カガリ曰くハツカネズミになってしまうことだった。誰か…例えばこういった色恋事では先輩の、ムウ・ラ・フラガあたりに相手をぼやかして訊くくらいの機転があれば、ひとこと「考えるな」といわれて、解決するようなことではあるのだが。

先にお風呂をもらったアスランは、キラを待つあいだリビングでハロを造っていた。
これは、ラクスのプラント帰還記念ハロだ。設計の構想はずいぶんまえにできあがっていたが、忙しさにかまけていたら完全に渡す機会を逸してしまった。キラをプラントまで送るときに彼女には会えるだろうから、それまでに仕上げようと考えていたのだが、どうも作業に身が入らない。だが、どうせ自分がプラントへ渡ったあとに、いくらでも機会はあることだ。
「………………」
そう思うと途端にやる気をなくして、アスランは手を止めた。
「ハロだ」
「…ああ」
タイミングを同じくしてキラがバスルームからもどってきた。フェイスタオルを頭にかけて、アスランが座るソファの横へ同じように座る。その頭はきちんと拭かれていないのが常だが、さきほどは珍しくドライヤーをかける音が聞こえていた。アスランはタオルを避けて、キラの髪に手を入れた。
「まだ生乾き」
「いいんだよ。あとは自然乾燥で」
キラはひとり暮らしをしたことがない。プラントへいけば、当然個室を充てがわれるだろう。生活の面倒を自身できちんと見られるのかが───。
「心配だ」
「何が?」
「キラに人間の生活ができるのかどうかが」
「………………」
キラは手にしていたハロをことりと静かに置いて視線を落とす。頭にかかったままのタオルのせいでその表情が見えない。
「ぼく、きみが思うほど子供じゃないよ」
声色が静かだった。
怒っている様子は感じないが、不愉快ではあったかもしれない。
「そうか。わるかった」
アスランの声に顔があがった。その動きで渇いた毛先が微かに揺れる。キラは感情の読めない表情をしていた。
「髪、伸びたな。プラントいくまえに切ってこいよ」
「──うん」
詫びておきながらかまいつけることをアスランがいっても、キラは気にするふうもなく素直に頷いた。これはもう、昔からの癖だから仕方がない。彼もそう理解しているのだ。今もきちんと留められていない寝間着のボタンが視界に入り、気になってつい手を出す。
「風邪ひかないように気をつけないと…」
留めようとした手元に視線を落とすと、ふいにキラの首筋のあの位置が、目に入った。やはり至近距離で見ると微かにまだ痕が残っていた。アスランはボタンをかける手を止める。
「………………」
「…え、…何?」
口の中で何かをつぶやいたアスランに訝しげな視線をキラがよこしてきたが、彼は応えずにソファの背もたれに腕をまわし、キラの肩を引き寄せた。

顔を近づけて、そのまま身動ぎしないキラの唇を軽く吸い、なぞるように舐める。風呂あがりで水分を含んだその唇はいつもより柔らかい。
アスランの舌の動きに少し開いたそこからは、小さい、吐息がこぼれた。
───目を、閉じろよ…。
相手の表情も読めない距離で、キラはまだ目を開けている。アスランは早く目を閉じるほうなので今まで気がつきもしなかったが。
「…おまえ、いつも、そんなか?」
「……え?」
訪れると思っていたくちづけの代わりにやってきたのがそんな質問だったからか、キラは一瞬呆然とする。
「何?」
「目が開いてる。キスするとき、いつもなのか」
「……きみが閉じないからだよ、今のは」
おれが?といいながら、肩を抱くのとは反対の手を、キラの腰にまわす。
「……そうだよ…」
返事をするその声がわずかに小さくなったのは、腰にまわした手が欲望の動きを示したからだろう。
「…きみの瞳…が…きれいだから」
少しあがった息が声を途切れさせている。まだそれほど強い刺激を与えているわけでもないのに。
アスランは面白がって寝間着に潜らせた掌で脇腹を直接撫でた。そうするとキラは完全に一度喉をつまらせて、遊んでいたアスランの手を掴み引きはがした。
「…せっかく近くで見てるのに。もったいないと思って。そう、思わない?」
懲りずにキラの寝間着のまえを開けながら、アスランはくすりと笑った。
「おれにそう、いわれてもな」
きれいと褒められた瞳を閉じ、今度こそキラと唇を合わせ舌を挿し入れた。深く繋がるために身を乗り出して、キラが逃げないように頭を支える。バランスをくずしたキラはソファの背もたれに手をあててそれを凌いだ。そのあいだも絡ませた舌の動きで、小さな喉声が漏れて聞こえてくる。
くちづけたままさらに覆いかぶさり、ソファのうえで押し倒す形になった。すでに素肌を触れる手は忙しなくなっていて、キラの内股にまで届いている。優しく撫でると、全身が泡立つのが伝わった。
唇を少し離して舌だけを残し、そうしてキラの舌を舌で誘い自分の口腔に招き入れる。強く吸って柔らかく歯を立てると、キラは切ない呻きを喉に響かせた。その音がもっと欲しくてつい激しくなる。
「………ん…ぁ……」
ときおり唇を離して、忘れているらしい息継ぎを思い出させると、そのたびにキラの甘さが増した。肩にしがみついている手の平からしっとりとした熱も伝わってくる。その熱さに、待ってくれていた──と考えるのは穿ち過ぎか。こちらのためらいを知って、踏み出すまで待っていたのだと。
しばらくして、長くなってしまったくちづけを止めて顔を離しキラを見おろすと、その息は乱れ、眦にはうっすらと涙がたまっていた。
「…ごめん」
苦しそうな様子に思わず謝る。
さっきいつまでも開いていた目は、もうしっかりと閉ざされている。たぶん、この先を期待して。
「して、いいか?」
耳元に唇をよせてそう小さく囁くと、キラの身体が震えた。今のひとことに欲情したことが、はっきりとアスランに伝わる。その問いかけに、返事は無用だった。

「ひどい、アスラン! せっかく消えかけてたのに!」
バスタオルを腰に巻いただけの姿でリビングに駆けてきたキラは目が合うなりそういった。
アスランはソファのうえでゆったりとコーヒーを飲みながら、眠気をごまかそうとしているところだった。その座るソファの背に掛かったままになっていた寝間着のうえを拾いあげてキラに差し出す。
「───キラ、風邪ひくから」
キラは取りあげるようにそれを奪い取ると「信じらんない!」と、もうひとこと追加した。
ゆうべは戯れが過ぎて、ふたりともほぼ眠る時間がなかった。もっと眠りたいとむずがるキラに「もう子供じゃないんだろ」と励ましてバスルームに追いやったのは十数分前のこと。
眠気覚ましにと熱めにしたシャワーで上気した身体に浮かぶその痕は、さきほど見たときよりも色を少し濃くしていた。
「……制服の襟で見えないところだろう? オーブのもザフトのも…」
多少理性をなくしていたとはいえ、最初の夜のときからその痕を散らす位置には気を遣っていた。首筋のものは場所としていちばんきわどかったが、制服であればきれいに隠れる位置でもある。
「そうじゃなくて。パイロットスーツに着替えるとか人目があることいろいろあるじゃないか!」
「……パイロットスーツに着替える以外でいろいろってなんだ?」
寝間着を羽織る動作がぴたりと止まる。
「………えーと?」
真剣に考え始める姿が愛らしい。
「なんでもいいから、キラ。人目に晒すなってことだから。おれのいないところで」
笑いながらもはっきりといってやると、目をぱちくりとさせてこちらを凝視した。コーヒーを啜りながら負けじと見つめ返す。
正直なところ、そんな狭量な感情──独占欲でその痕をつけたとは考えていない。もちろん、まったくとは、いいきれないが。
ただ、ゆうべは消えかかるそれにふたたび色付けることを、彼を抱く理由にしたかっただけだった。そうして、誰にいうでもないいいわけを用意しなければ、思い切ることもできなかったことが莫迦ばかしくなってくる。そう思うくらいに、ゆうべのキラは情熱をもって自分の行為に応えてくれた。
「アスラン…じゃあぼくもつけるね」
「は?」
いいながらアスランの傍に近づき、あっと思うまもなくソファに座る彼の膝に向かい合って座った。
「キラ…!」
「ぼくよりアスランのほうが危ないよね。もてるし」
違う、興味をもたれることと、もてることは違う、と思い、告げようとしたが、目の前のキラは聞く耳を持つ雰囲気ではない。
シャツのボタンをうえからひとつ、ふたつと外し、窺うようにこちらをじっと見た。
「……判った。いいよ。好きなだけ」
ため息を吐きながら許可を出すと、満足そうに微笑んだ。やろうとしていることを考えれば、あまりにもそぐわない、健康的な笑みだ。だが、キラはアスランの首元に視線を落としたまま少しも動かず、むしろじれったく思っていると、上目遣いにちらりとアスランを見やった。
「……けっこう恥ずかしいね、これ」
「じゃあやめるか?」
訊ねると、視線を横に向けて、うーん、と真剣に悩んでいる。アスランはその顎を掴んで自分のほうへ向かせると、そのまま深くくちづけた。少しだけ肩を押されて拒む気配があったが、数秒もたたずにその手が首の後ろへとまわされる。何度も唇を離したりつけたりを繰り返し、最後は、耳の下からその首の根元までをくちづけた。そうしながらキラの頭をそっと自分の肩に押しつけて、キラを誘う。
「…ん……」
微かに漏れた声と吐息が耳に届く。キラはためらいなくアスランの首筋を吸った。
あとで確かめれば、おそらくそこには、彼の所有を示す印が残っているのだろう。