Evergreen Interlude

C.E.74 12 Sep

Scene アカツキ島・孤児院近くの浜辺

鼓動が激しく高鳴っていたのは、全力で走っていたからではない。
───不安。
それがアスランの心臓を早鐘のように打っていた。
いるべき部屋にキラがいなかった。それだけで。心が激しく乱れていた。それなのに頭のなかはしっかりと働き、目を離した時間からそう遠くへは行っていないことをすぐに判断すると、まもなく見つけた砂浜の足跡を追い、波打ち際に立つキラの姿へとたどりついた。
「キラ!」
彼の腕を捕らえる瞬間まで声をだすこともできなかった。見失っていた時間はほんの十数分だっただろうに。おかげでキラを驚かせて、怯えさせた。
突然に後ろから強く腕を引かれたキラは、それまでの日々で見せていた反応の薄さを忘れたかのように、激しい抵抗を見せた。

───この浜辺にはいい思い出がない。

その記憶の多くを占めているのが、キラが忘我して、アスランがつくす手もなく過ごしていた頃のことだった。キラに誘われなければこの海辺で沈む夕日を眺めようなどということを考えもしなかっただろう。
さきほど辞した孤児院での喧噪がまだ耳に残っている。楽しかった時間を早めに切り上げ、キラがこの浜辺にきたがった理由は判らない。

再建が終わったマルキオの孤児院へ遊びにいこうと提案したのはアスランのほうだった。キラはまもなくプラントへ発つのだからそのまえに、と。子供たちにはとりたててキラがプラントへ行ってしまうことを告げなかった。ラクスも離れ、ついでキラとあっては皆が不安がるかもしれないと思ってのことだった。折りをみて、いずれマルキオが話をするのかもしれない。キラのゆく先はプラントではなく、さらにその先にあるのだということを。
そっと覗き見たキラの横顔は夕映えに染まっていた。その暖かい色に似た穏やかな微笑を口の端にのせて、視線をずっと海にそそいでいる。
だが、果てがない先を見つめるその瞳は、アスランにあの頃の不安を思い出させた。
「ここにくるといろんなこと考えたな」
キラがぽつりと呟くのをアスランは聞き流した。たった数年前の記憶から自分自身を呼びもどすのに少しの時間が要ったからだ。それほどまでに辛かったのか、とアスランは自嘲する。
今、横に立つキラは当時の様子をかけらも残してはいない。その安心がなければ、あのときのように無理やりキラの手を引いてこの場所から去ろうとしていただろう。
海に視線を投げたまま、キラはかまわず続けた。
「あの頃一生懸命考えてたのは、きみがいなくても生きていけるようにしようってことだった」
はたしてキラのいう“あの頃”は、今アスランが回想していた“あの頃”のことなのだろうか。疑問に思う必要はない。黙して語らずにいるとき、同じことを考えていることがアスランとキラにはよくあった。
だが、“あの頃のアスラン”は。キラがいない世界に生きることを、ほんの一ミリも考える余裕などなかったのではないか。キラを護るつもりでいながら、誰よりもキラに縋っていた時期だった。さぞや疎ましかっただろうと思う。
沈み込むアスランが視線を少しあげると、キラがそれを待っていたかのように次のことばを繋いだ。
「でも、きみがいないと生きていけないんだって判ったのもここでだったよ」
そういって、照れたように少し俯いた。
恋を知った瞬間の話はそのまま最初の告白を受けているようでもあって───アスランはにわかに胸が熱くなる。
この浜辺へきて条件反射のようにふつふつと湧いた不安が、ふっと消えていくようだった。
キラの話はまだ終わらなかった。
「きみがいなくても…なんて考えること自体、きみに依存してたってことだよね」
そういってアスランを振り返ったキラは何かを求める瞳をしていた。
片腕を伸ばしてキラを抱きよせると、彼は身動いでそれを拒んだ。それを許さないように腕の力を強くしてさらに抱きしめるとおとなしくなったが、押さえた肩はくつくつと震えていた。楽しそうに笑う声も聞こえてくるので、アスランは嬉しくなる。
「…アスラン……放してよ…」
「だめだ」
キラを包むこの腕と身体と、その心が、なくなる日はありはしないのだから、思う存分に欲しがればいいと彼に教えてやりたかった。
「ねぇほんとに…! 迎えがきちゃうよ」
「もうきてるぞ」
いって投げかけた視線の先の高台には護衛官の車が停まっていてた。実は数分もまえからそこにいることにアスランは気がついていたが、約束した迎えの時間にはまだ早かった。キラだけを乗せて去る予定など、早めてなんの得にもなりはしない。
「───いってよ、アスラン!」
腕の中のキラが暴れだした。拘束を緩めながら笑って「今いっただろ」といえば、どんどんと両肩を両手で小突かれる。押された勢いがあまってアスランが後へよろけると、今度は慌ててその手を引いてくれた。引かれるままキラに体重を乗せかけて、抱きついて、また突き飛ばされて、約束した時間がきてもしばらくふたりでふざけあっていた。
キラもアスランと離れたくないと思っているのだろう。キラはこれからヤマト家にもどり、アスランは軍本部での仕事が待っている。明日はアスランもヤマト家へ行くのだが、たった半日の別れを引き延ばしてしまうのは、そのあとに長い別れも控えていることを知っているからだ。
「ぼくも軍にいこうかな」
「週末の団欒を決めたのはおまえだろう」
「そうだけど。アスランが一緒じゃないんだから約束を守ることにもならないし」
週末は必ずヤマトの家に帰ると決めていた。それはキラがアスランのいる官舎に移ってからも有効な話だった。
「ぐずるな」
アスランは呆れたように少し微笑み、彼の髪をさらりと撫でた。キラがわざとらしく唇を尖らせる。
キラを独り占めしたい気持ちは充分あったが、彼がプラントへいけばアスラン以上に会う機会をなくす彼の両親との時間を奪う気も、もちろんありはしなかった。ほら、と拗ねた気配を隠さないキラの片手を引いて車のほうへと向かう。その途中で手は振りほどかれたが、キラはおとなしくアスランのあとをついてきた。
浜と高台の車道をつなぐ階段をあがりきったところで護衛官が車を降り後部ドアを開いてキラを待つ。アスランは何気なく護衛官の様子を視認しながらキラを導いた。今日の護衛はキラを担当することが多いナカザワひとりのようだった。
「ごくろうさまです」
「頼む」
ドアの横に立ったところで佇んでいたナカザワにそれぞれがことばをかけると、彼は会釈して応え車を廻り運転席のドアへと向かった。
「じゃあ、キラ」
「…ん」
不機嫌をめいっぱいアピールするように、キラはアスランの顔を見ることなく返事をする。
ふいに、寂しさを滲ませるキラの気持ちがアスランに伝染ったようだった。別れ際にそんな顔を見せられれば仕方がないだろう、と思う。
俯いたまま車に乗り込もうとするキラの肩を引き止めるように軽く手で押さえる。疑問を発しようとこちらを向いたキラの唇に自分のそれを一瞬だけ合わせた。ちゅ、と軽い音をたてて離れると、キラの瞳がみるみる見開かれていく。
「また明日」
微笑んでそういえば、今度は口のほうがぽかりと開いた。
「………ア……ッ」
非難が始まるまえにとキラを車のなかに押し込むと、同時にナカザワがエンジンをスタートさせる。彼はこちらのしていることなど気にしないだろうが、キラが嫌がるのは知っていた。閉じたドアの、見難いスモークガラスの向こうでキラが声なく「莫迦」といっているのが見える。アスランがそれに応えて手を振ると、キラを乗せた車はゆっくりと動きはじめた。