指輪3

C.E.74 22 Jan

Scene アークエンジェル・医療室

ふたりとも大事で大切で、それは同じで。アスランになら、カガリを護らせてあげてもいいと思っていた。
それは違う、と。ラクスにいわれて。逆でしょう?───と。
そうして、その指輪を選んだキラを、責めた。

ベッドに横たわるアスランの片腕に点滴の細い管が繋がっている。キラが医療室に入ったとき、アスランはすでにこの状態で寝息をたてていた。医師の姿はなく、もどる様子もない。キラは椅子を引き寄せてアスランの傍らに落ちついた。
ぽたり、ぽたり、と輸液が落ちていく様をぼんやりと眺める。しんと静まり返ったこの医療室は、艦内の慌ただしさから取り残されて時が止まっているかのようだ。
ふたたび宇宙へあがることを決めて、この数日アークエンジェルはその準備に追われている。キラはストライクフリーダムやそのほかの機動兵器、もちろん彼のインフィニットジャスティスも含めて、宇宙用の仕様に調整するタスクを抱えていた。ついでというわけでもなく、システムのバージョンアップもかねるので結構な作業量だ。その忙しさを押して今ここでこうしているのは、キラにとってそれが必要なことだったからだ。

ふと気配を感じてアスランの顔に視線を落とすと、閉じられていた彼の瞼がゆっくりとあがる。この部屋でアスランが目を覚ます瞬間に立ち会ったのは、これで何回目だろうか。
「………キラ? …なんで…いるんだ…?」
彼がうたた寝していたのはほんの数分くらいだったはずだ。そのあいだに訪れていたキラにアスランが驚くのも無理はない。
「ん……うん」
キラはあいまいに返事をした。適当ないい訳を考えておくべきだったと思っても、もう遅い。だが彼は少しぼんやりとした視線をさまよわせただけで、それ以上追及することはなかった。
「……眠ってたのか…」
掠れた声はそれをはっきりと物語っているが、どうやら彼自身知らずに眠っていたらしい。アスランはいつもスイッチがきれるように眠る。それでなくても本来はまだ療養すべき期間だ。彼は内臓を少しばかり傷つけ、そのためにいまだふつうに食事を摂ることができず、こうして一日か二日おきに点滴で栄養を補っている。それなのに彼は医療室のベッドを離れ、艦内の作業をいくつか手伝うことをもう始めているのだ。
「まだ早いんじゃないの、作業とか。疲れたんだよ」
「疲れるほど手伝ってない。……ああ、終わるな」
輸液パックの残量に気がついて、アスランは気怠そうに身体を起こし足を床へ落とした。
「あ、先生よんでくる」
「いい」
「でも」
「自分でできるから。キラはここにいてくれ」
最後のひとことに妙な力強さを感じて、浮かせかけた腰をまた椅子にもどす。
「…キラが手伝ってくれればできるから」
「………うん…え?」
明らかに不安そうな顔をしたキラにくすりと笑みをこぼして、アスランはベッドの脇にあるワゴンから消毒液を含んだ脱脂綿を取り出した。針の刺さる左の肘裏にそれを押しあてながらキラを見る。
「ここを押さえててくれないか。目は瞑っててもいいから」
「へ、平気だよ!」
キラは昔から注射だの針だのが苦手だった。キラの苦手なものはアスランも当然知っている。いいトシをして、とからかわれるのも嫌だったし、確かに押さえるだけだったらどうということもないように思えた。
それでも、脱脂綿をアスランから受け取り充て直す瞬間に見たものに少しばかりぞわりとする。アスランの白い皮膚の下に透けて、そこに針がくい込んでいる様子をはっきりと見てしまった。鳥肌のたつ思いで針の刺さる箇所を押さえていると「もう少しちゃんと」とアスランから指摘が入る。力の加減が判らず戸惑っているあいだにアスランはすっと自分の腕から針を抜いてしまった。
「押さえてて?」
いわれてキラは血止めを意識して少し強く押さえた。針がないと判れば不思議なことに何の恐怖もない。キラからあからさまに肩の力が抜けたことに気がつくと、アスランは遠慮なく声をあげて笑った。
アスランはザフトの軍事教練で簡単な外科的措置や医療知識を学んでいる。人手がなければ注射くらいは自分でやるし、他人のものであれば縫合の処置ぐらいはできるのだろう。対比して、自分の身体どころか他人が注射を打たれるところさえもいつも目を逸らしていたキラだ。
「莫迦にしてるでしょ」
「してないよ。誰だって苦手なものくらいあるだろ」
「……笑ったくせに」
「莫迦にしたんじゃないよ…」
アスランの腕を押さえるキラの指に、彼のもう片方の手が触れてきた。過去を思い起こすような、優しい声色におとされた囁きにどきりとして、思わずアスランの顔を見つめる。その顔は柔らかく微笑んでいた。
「もういいよ、キラ」
触れた手が放していいの合図だったといわれて気がつく。
キラは高鳴る自分の心音をどこか心地よく聞きながら、視線を外した。
───アスランが、好きだ。
好きなんだ、と。いいきかせるように心のなかで繰り返す。
こんなにも、彼を想う気持ちで充足している自分自身が不思議でならなかった。どうにも開き直ったとしかいいようのない感覚がどこかにある。このまえまで何か苛々としていたのは、どこかで彼から離れようと考えていた自分の気持ちに対してだったのだろう。
好きだから、できないから、もう離れない。
そう思えばキラの心はどんどん安定していって、彼をまえにして騒ぐ心臓の音さえどこかで楽しむ余裕まであった。
キラはワゴンを自分のほうへ引き寄せながら、支えるために掴んでいたアスランの手首をそのままにすると、ステンレスのケースから注射用の保護パッドを取り出し、まかせて、と彼の腕を引いた。
いわれるままキラに左腕を預けて後処理を任せ、そのあいだアスランはずっとキラを見ている。
キラはアスランの腕に視線を落としているが、そのまなざしに気がつかないはずがない。見られているこちらがそれを知ってどう思うのかとか、そういったことが欠けたような、互いの関係によっては不躾ともいえる視線だった。
「なに見てるの」
苦笑混じりにそう問うても、アスランはわずかに微笑むだけで答えない。実をいえば、アスランがアークエンジェルにもどってから、何度もこのやりとりをしている。
最初のときだけ、彼はその理由をいった。

───キラがいる、と思って。

フリーダムが墜ちるところを彼は見ていたらしい。
信じてなかった──と。
まだうまくことばを発せない状態だったとき、アスランはうわごとで何度かそういった。それでも彼は不安を抱えてはいたのだろう。
大切に思われていることの自覚はあった。それが少しばかり行き過ぎていることも。
それで充分だ、ともの判りよく思っているわけではなかった。
それでもどこかで引かなければと思う心は、かろうじて残っている。アスランがここへもどったのは何も自分のことばかりではないはずだ。約束を告げた先があることは、彼女の指に見覚えのあるリングが光っていることが物語っている。
「おまえ、どうしたんだ?」
「…え……」
気がつくと、アスランはやわらかな微笑みでキラを覗き込んでいた。
ここ数年のあいだ見ることもなかったような、懐かしく、あたたかな笑顔だった。
───きみこそ、どうしたの。
それは衝撃に近かった。コペルニクスで過ごしていた頃の、包むように優しい雰囲気。戦乱の最中にあって、自身もひどいけがから回復したばかりで、なぜそんな───幸福しか知らないような空気をもっているのか。
「どうしたんだよ、キラ」
おれのあとを追ってばかりいる、と彼はいった。絶句しているキラに、少し呆れたような声音で。
「そんなにおれが心配か?」
仕方がないな、といいたげに。キラの髪をさらりと撫でた。
「………心配、かけたんだよな?」
ごめん、と。
いいながらその瞳が少し細められた。髪を撫でた指がそのまま頬を滑って、顎に辿りつくまえに、止まった。
触れているところが温かい。熱をもって、生きている身体だと思った。それこそ、アークエンジェルへキサカが連れてきたときには顔色も蒼白で、血も通っていないのではと思わせるほどに身体は冷たくなっていた。
───そうだよ。もう、ずっと…。
キラはアスランから目が離せなくなっていた。もうこの人を失えない。
「…心配、したよ……」
キラの頬に触れているアスランの手をそっと掴んだ。
「ねぇ。謝るんだったら。わるかったって思ってるならさ、」
「つぐなうよ」
最後までいい終わらないうちに即答されて、キラは少し笑った。そして、掴んだアスランの片手を両手で包んで、そのまま彼の膝の上に落とす。手を放さずにいることが不自然ではないように、そして、その手が震えないように、気を遣いながら。
「そう思ってるなら、ぼくからもう離れないでくれない?」
「判った。離れない」
掴んでいるアスランの手が強く握り返してきた。自分で頼んでおきながら迷いなく応えられたことに狼狽していると、アスランはぽん、と繋いだ手を軽く跳ねさせて、その続きを語った。
「…カガリにもそういわれたし。キラから離れるなって」
「──え…? カガリ? …なんで……」
さぁよく判らない、といってアスランは視線をキラから外したが、握っているその手にもう一度力が込められた。
カガリはアークエンジェルをオーブ軍の所属艦とすることを決めて、今はその対応に奔走していた。キラとアスラン、カガリを慕って集まったアマギたち、皆をそうして護ることができるのは自分だけだから、といって。
護りたいと、護って欲しいといっていた自分たちを置いて、いつのまにか彼女が護る側にいた。カガリはキラにとっていつもそうだった。目の前にいる彼にとってはどうなのだろうか、と思う。
「いろいろ腑甲斐なくてすまないと思ってるよ、彼女には」
訊ねるまえに答えられたことに少し驚いたせいもあってキラはすぐにことばを返せなかった。もちろんそれを訊くつもりなど、なかったのだが。
アスランはキラの手を強く握ったままで、何かを思うように沈黙した。キラも彼女のことばの意味を少し考える。
「……もう仲違いするな…ってこと、かな…」
護ると約束したのに、カガリを泣かせた、と。癇癪をおこしてアスランが乗る機体をキラは墜とした。アスランにしてみれば、護ろうと彼なりに考えて動いた結果だったのだろうけれど。
離れたりするから、心が通じなくなるのだと。その結果が──。
「………そう…かもしれないな…」
視線を落としたまま、納得した様子もなくアスランはそう応えた。だが、それ以外に何があるというのだろう。

アスランと、カガリ。

キラにはふたりのあいだのことも、よく判らない。祝福する気持ちはあっても、たとえばどんなふうに仲良くしているのかとか、どうふたりで過ごしているのかなど、詳らかに訊いたことはなかった。訊きたくなかったといってもいい。
最初はカガリから、アスランとつきあってると聞かされて。気持ちに整理のついていない頃だったから、ただ単純にそうかと思い。アスランになら、彼女を護らせてあげてもいい、と思った。

「そうではなくて、カガリさんだから、アスランに護らせてもいいと思ったのではありませんか?」

いつか、ラクスにそう嗜められた。だが、キラはいっている意味の違いが理解できず。
「そうですわね。キラが大切にしているトリィをどなたかから貸してくださいといわれたら、ためらいなく貸すことができますか?」
そもそもそんなシチュエーションがくることも考えたことがなく、キラの思考が追いつかないでいるとラクスはかまわずに続けた。
「アスランははじめからキラのものですもの。少し寂しくても、カガリさんのためにしばらくのあいだ彼を手放すことになっても仕方がないと、思われたのではありませんか」
そんなふうに考えていたという自覚はなかった。だが否定もできなかった。何故ならそのすぐあとに、キラのなかでコペルニクスでの別れが、彼への独占欲に対するトラウマになっているのでしょうとラクスが続けたからだ。
いつでも喪失の恐怖が心のどこかにあった。
───どうせきみは、ぼくの思う通りになってくれない。ぼくの傍にいてくれない。
そうして拗ねた感情が彼のことばを拒否し続けることになり、あげく、殺しあった。そのあとにその距離が近づいても、やはり再び離れることに知らず恐怖して、自分から距離をとった。
そうしたことを滔々と指摘されて、そうとも違うともいいきれず、ただ悟ったことは、彼を失えないというただそれだけのこと。
ラクスはその終着に満足がいったようで、それ以上は何もいわなくなった。

「キラ」

アスランからふいに呼ばれて、間のわるい沈黙が続いただろうかと思う。キラはなんでもないことを表すために首を横に振ってアスランに微笑みかける。彼はせつなく目を細め、それを見ていた。そのまなざしが、あまりにも優しくて。
愛しい、と。声に出して叫んでしまいそうだった。
「…どうでもいいことだな。誰にどういわれたからと。おれがもうキラから離れないと決めたことなんだから」
いいながら臆面もなくまっすぐに見つめてくるのを、キラはゆったりと見つめ返す。
「アスランが…?」
「そう」
「……離れない?」
「そうだ」
もう二度と?───と、続けて訊ねることができなかったのは、目の前のアスランがうろたえたように目を瞠っていたからだった。
「……キラ…!」
アスランは一瞬何かをためらってからぐっと口を引き結ぶと、握りあっていた手を解いてキラの頬にその手を伸ばしてきた。
「───あれ…?」
すぐに離れたアスランの指先に見えた雫。キラからこぼれた心がその指に乗っていた。
「………泣くやつが、あるか」
「あ、な、なんで。かな」
自分自身でそんな気配などかけらも感じていなかった。理由を考える暇もなく次には腕を引かれて、キラは促されるままアスランの左横、ベッドのうえに引き寄せられた。
「…久しぶりに見たな…キラの…」
その先のことばは音ではなく、濡れた頬に触れた唇で表された。子供の頃と同じような慰めかたをされ、その彼と自分への恥ずかしさに慌てて涙を拭おうとするが、アスランに止められる。
「おれはもう、おまえには必要ないんじゃないかってずっと思ってた。………ずっと…」
そんなふうに思ったことなど、一度もない。キラは信じられないことをいうアスランを咎めるように見つめて、そして、また次の涙がこぼれる。アスランはその雫も指の背で拾いあげて、いっそう柔らかな笑みと声でいった。
「よかったよ。この先、どうやって生きていけばいいのか、判らなくなるところだった」
キラの右手にぎゅっとした圧力を感じた。いつのまにかまたアスランの手が力強く握っていた。キラの顔を覗き込んでいる双眸は深い色なのに輝いて見えて、キラはようやく心が熱くなってくるのを感じはじめる。
「そんな大げさな…」
無理に絞り出したからかう声でそういえば、目のまえの彼は、また昔の優しい微笑みを見せてくれて、再び頬と、それから濡れた睫。
最後に唇に。
───くちづけをくれた。

─End─