萌芽

C.E.73 8 Sep

Scene アカツキ島〜オノゴロ島

麻酔がきれるとアスランはすぐに目を覚ました。
「………ラクス…」
呼ばれてそのことに気がつく。
「アスラン」
彼の傍らにいたラクスは気遣わしげに名を呼んだ。それと、安心をさせるような声色で。
「……キラは…?」
彼の目覚めてふたこと目に、ラクスは心の裡でそっと笑む。
室内の様子で自分がどこへ運ばれたのかすぐに判ったのだろう。そして、今の自身の状態を知って心配するキラを、心配しているのだ。

───あるいは、ただ、キラのお顔を確かめたいだけなのかもしれませんわね。

「…お呼びしましょうか?」
「………………」
ラクスは手にしていた文庫を閉じて、アスランが横たわるベッドのサイドボートに静かに置いた。
いらえのないアスランの顔を覗き込み、その感情を読み取る。
「……喉が渇いてはおりませんか? キラはさきほどまでここに、いたのですけど、」
ここでアスランは初めてラクスのほうへ顔を向けた。ほんの一瞬だけ表情を歪める。動いたことで傷が痛んだのだろう。
「あなたが目を覚ましたら、喉が渇いているだろうとおっしゃって…今キッチンで、ジュースを作っていますわ。あなたのために」
「キラが?」
「ええ。最近はよくキッチンに立って、食事のお手伝いもしてくださいますのよ」
ことに、この頃はオリジナルのジュースを作って子供たちにふるまったりなどもしていた。作るものはそのときどきでブレンドに失敗することもあり、いつもおいしくできるとは限らない。子供らは、そのひとくち目をいつもどきどきとしながら口にしている。
そんなことを語って聞かせると、彼の蒼白な顔色はわずかに上気して口許は小さな微笑みを表した。
「……カガリは何かいいましたか」
だがすぐに笑みを消し、少しの沈黙のあとアスランはそう訊ねてきた。
「…カガリさんを庇って、あなたは撃たれた、と」
「………キラはそれを、信じた?」
「…アスラン…、何を疑うと、おっしゃるのですか?」
アスランはその問いにも答えなかった。

キッチンでキラはイチゴの蔕を丁寧に取っているところだった。
時間がかかっているのは、子供たちの分も、とカリダにねだられたからだ。
「キラ」
すぐ背後でラクスの柔らかな声がする。その声ひとつで、アスランが目を覚ましたのだとキラには通じた。
首を静かに巡らせて彼女を見る。少し微笑んでみせてから作業を再開した。
「イチゴミルクですか?」
「これなら、ぜったい失敗しないからね」
カウンターにある材料を見たラクスが今日のメニューをいい当てた。
「アスランが喜びますわ。……今しがた、目を覚ましました」
「うん」
「喉も渇いている、とおっしゃってます」
「うん。判った。急がないとね」
ラクスの穏やかな心は、キラのなかにあったいい知れぬ恐怖の残滓を拭い去った。もう取り乱すことなく、彼の顔を見ることができると感じる。
キラは、実はその心を落ちつかせるためにジュースを作る、といった。目覚めない彼の傍らにいるだけでは、震える手を止めることができなかった。
どうして、と思う。
手術は成功し、命の心配もないといわれた。モビルスーツで出撃するときよりも、保証された彼の命。
───たぶん、目を逸らそうとしていた。彼から。
その理由は判らずに。そして、逸らしているあいだに起きた出来事に恐怖したのだ。
───そんなことをしてる場合じゃない。
いつのまにかアスランに対して作っていた壁を、そのままにした自分が莫迦だった。理由が判らないのなら、それはないも同じだ。わけも意味もない壁など、すぐに取り払うべきだったと後悔する。
キラはミキサーにイチゴと牛乳を入れた。そして、アスラン用と子供たち用とでハチミツの量を変え、ミキサーを何度か回す。
そうしているあいだずっと、早く目覚めた彼の顔を見にいきたい、と思っていた。ことさら丁寧にジュースを作って、それを引き延ばす自分を不思議に思う。
彼の顔を見たい。見たくない。
ゆるやかにすすめていた感情の回復を、今ここで急にすすめることに慣れず、キラは少しだけ戸惑っていた。

アスランを放っておくと、いつも沈んだ表情に落ち込んだ。
それに気がついたキラは、何くれとなくアスランを介護してかまい、会話がなくなっても傍から離れないようにしていた。兄弟のようにして育った彼とは、無言のまま何時間一緒にいても特別苦にはならない。
そうしてときおりアスランの様子をちらちらと見ながら、キラは本を読んだりパソコンで遊んだりして、彼と同じ部屋で数日の時を過ごした。

不思議なことに、アスランはキラの世話を唯々諾々と受け入れた。ときおりは、微笑んで礼もいった。
「変な感じ。自分がかまわれるのはいつも嫌がってたのに」
カリダからアスランの新しい着替えを受け取りながら、キラはそう母親にこぼした。
「子供のときはアスランくんがお兄ちゃん役だったものね。でも、彼もいつまでも子供じゃないでしょ?」
キラはそのことばに少しどきりとする。
───昔とは、違う。
そうだった。昔とは違う。敵対していたときに、何度も思い知ったことだった。今は昔のように傍にいるけれども、やはり違うのだ。身体も顔もおとなびて、そしてその心の裡も。
そして、彼はもうキラだけのアスランではなくなっている。いいようのない寂しさがキラを包みこんだ。拗ねた気持ちがふっと湧いて、アスランの世話をすることが嫌になってくる。
───ひどいな。ぼくはこんなに独占欲が強かったろうか?
メンデルでしばらくのあいだ、彼を独り占めしていたことを懐かしく思った。いつの間にかキラから手を離し、戦いが再開されるころには、その手はカガリのものになっていた。そして、今も。
大好きなふたりが、お互いを大切に想って傍にいるのはいい。彼らの倖せを思うだけでいつも心が温かくなった。今もその気持ちに変わりはない。
それなのに、この感情は何だろう?
少しばかり不愉快な気持ちでアスランの着替えを手伝う。アスランは、そんなキラの様子にすぐ気がついてきて、どうかしたのかキラ?、と訊ねてくる。
こんなところばかりは、昔のままだ。キラのことがすぐに判ってしまうのは。
気がついて欲しくないのに。こんなに醜い気持ちでいることなど───。

キラが「ひとりでいいよ」というと、ラクスは心配そうな顔をして何かをいいかけた。それでも一瞬の後には微笑んで、「判りました。お気をつけて」と送り出してくれた。
キラは、小型のボートを走らせてオノゴロ島のアスハ家別邸へ向かった。
何度か出血がひどくなったせいで、アスランの着替えが足りなくなった。悔しいことに、キラの服ではサイズがひとつ小さく、アスランには合わない。着替えをわざわざアスハ家の使用人に持ってこさせるのも何だから、とキラが取りにいくことにしたのだった。
別邸に着くと、さきに連絡しておいたため、カガリの侍女であるマーナがひととおりのものを用意しておいてくれていた。
「少しお休みになっていってくださいな。たまにはマーナの相手もしてくださいませ、キラ様」
確かに荷物だけ受け取って「さようなら」とはいかない。
マーナに捕まることは想定していなかったな、とキラは苦笑いした。何しろ彼女のマシンガンのようなおしゃべりはとりとめがなく、まともにその相手をするにはかなりの疲労を覚悟しなければならなかった。
だが、そのとりとめのなさで、キラはアスランのけがの真実を知った。
「───アスラン、の、ほう?」
「そうなんでございますよ。何でもお父上様をお恨みしていたとかで。とんでもない八つ当たりではありませんか!」
───カガリを庇って負ったけがだといっていたのに。“アスランの命”、が、狙われた──?
ことばをなくし、さっと青ざめていくキラの様子に、さすがのマーナも気がつく。
「キラ様?」
名前を呼ばれてはっとし、「ぼくもうもどります、ありがとうございました!」といいながら立ちあがる。後ろでマーナがまだ引き止めるようなことを何かいっていたが、かまってなどいられなかった。
ボートまで走って飛び乗り、アクセルを全開にしてアカツキ島へもどる。
───アスランが狙われる、なんて。そんなこと、聞いてない!
アカツキ島の桟橋につき、ボートを飛び降りたあともキラはひたすらに走った。その間に周りを注意して見ると、孤児院の周辺に護衛の姿をいくつか認める。
───今まで、気がつかなかったなんて。
キラは舌打ちしながら家に入る。明らかに顔色の変わっているキラを見つけて、ラクスが傍へ寄ってきた。
「……キラ?」
キラはラクスの呼びかけを無視し、そのままアスランの休む部屋へ向かおうとする。

「キラ!」

強く呼び止められて、ようやくその足を止める。
キラの中に、怒りと恐怖がうずまいていた。おそらく自分は、このままアスランにぶつけようとしていたのだ。それに気がついたキラの表情は、みるみる歪んでいく。
「───っ! ラクスッ」
助けて、と声にならない声で叫ぶ。その場でくずおれるキラを支えて、ラクスは優しく震える背中を撫でた。
「少し、お話をしましょう。ね、キラ?」
ラクスに誘われて、外へでた。
「──きみは知ってたの?」
キラの話を聞いて、ラクスはいいえと答えた。
「でも、そういうこともあるかもしれない、とは……思っていましたわ」
アスランが地球で偽名を使うことの本当の意味を、今になってようやく知った…。
プラントからの追い手から逃れるためなのだと、思っていた。もちろん、それもあるのだろうが、このもうひとつの意味は、彼にとってオーブが安全な場所だとばかり思い込んでいたキラに大きな衝撃を与えた。
「ラクス……ぼくは…っ……。ぼくは、アスランを失いたくない…っ…!」
気がつくと、こわい、嫌だ、といいながら泣き叫んでいた。ラクスはそんなキラをふわりと抱き止めて「かわいそうなキラ」と囁く。想像しなかった恐怖を目の前につきつけられて、急に目が覚めてしまった。
もどってきた感情の爆発に震える肩を、ラクスはいつまでも優しく抱きしめていた。