萌芽

C.E.73 3 Sep

Scene アカツキ島・マルキオの孤児院

オーブ連合首長国の本島ヤラファスに連なる島、アカツキ島の浜辺にひとり、長らくぴくりとも動かない人物の姿があった。
その微動だにしない様子はまるで、いたずらで誰かがそこに置き去りにしたマネキンかとも疑いたくなる。人間である証拠に、その胸は呼吸でかすかに動いている。柔らかいランプブラックの髪は造りものではありえないさらさらとした動きで、海からの微風に揺れていた。

遠くからジェットヘリのエンジン音が響いてきた。
浜辺に立つ人物──キラは、ゆっくりと顔を巡らせて音がする方向を見やる。ヘリが視認できる距離へ近づくと、キラはわずかに不審の色を浮かばせた。
───いつものじゃない。
機体にあるマークでアスハ家所有のものであることは見てとれる。だが、いつもこのアカツキ島へやってくるヘリとは違うタイプのものだった。いつものであれば、その中にはよく知るふたりが乗ってくる。いずれにしても、彼ら以外にここを訪れる者などいないだろうから、いつも使うものが調子わるいとか何か理由があるのだろう。
彼らふたりは、忙しい公務の合間をぬって頻繁にここを訪れた。カガリがくるときは必ずアスランが付き添う。それ以外はアスランひとりで。今日はどちらだろう、と考える。
───アスランひとりだったら、嫌だな。
いつからか、そう思うようになってしまった自分に嫌悪を感じる。カガリが一緒なら、彼女が中心となっていろいろと話しかけてくるから、キラはアスランをそれほど気にすることもなく過ごすことができる。
アスランのことは大好きで、大切だけれど、傍にいることが、つらい。彼はそんなキラの思いを知るはずもなく、いつもキラを気遣って様子を訊ねてくる。最近はだいぶ回復して、以前のような会話をする“ふり”もできるようになったけれども、彼の傍にいることの息苦しさは依然あって、キラを苦しめていた。
それでも心配させないために、今日も嘘の笑顔で彼を出迎えるのだ。正体の知れない息苦しさを味わうことを諦めて。

ヤキン・ドゥーエ宙域戦の決着を見てから、まもなく二年になろうとしていた。
フリーダムのコックピットから投げ出されたキラは、アスランとカガリに回収されて生還を果たした。だが、もどったアークエンジェルの中、まもなく降り立った地球でも、何故かキラは昏々と眠り続けた。目を覚ましているあいだも半分眠ったままのように意識が覚醒せず、傍目にもぼんやりとしていた。医師の診断では異常はどこにも見当たらず、結局は“精神的な要因による何か”で片付けられていた。
周囲の者たちはその原因はこれまでの戦いのことと決めつけて、キラが平穏に過ごせるようにとひと気のないマルキオの元へ預け、ラクスとカリダが付き添った。
いや、最初はアスランも一緒だった。いつからいなくなったのだっけ、とキラは思い返すがはっきりとはしない。
その頃キラは、昏睡の次にやってきた自分の中のことに精一杯で、周りにまったく目がいかなかった。

“異常”──だったのだ、と思う。

それは実は、戦争の最中に始まったことだった。戦闘をおこなううえではそれは多いに役立ったけれども、平穏な日々の中では邪魔にしかならず、また、無駄にも関わらずその力は増大していた。
ともかく、感覚が異様に研ぎ澄まされ、ときには傍にいる人間の心の動きまで判るような気がした。ふとした予感がその通りになり、自分がつまずいてころぶことさえその事前に感じ取り、時間と事象のバランスが崩れた。既視感が立て続けに襲ってくるような感じだった。
他人との境界線はどこで、どれが本当の時間で、その中にある自分自身は、本来の自分はどこなのか、と探し当てることに必死だった。頭の中の忙しなさと混乱は身体への命令も阻害するので、結局キラはことばを発することを含めて動くことをしばらくのあいだ諦めることになった。その様子は、周囲からはただキラがぼうっと惚けたように映っていたらしい。
一年が経過して、ようやくそれは落ち着いた。…というよりも、無意識に制御する術を覚えたらしい。今は、長らく使わなかった感情の表現や他人とコミュニケーションをとる方法を少しずつ思い出し、せめてまともに生きている人間に見えるようにとリハビリを続けている。
同時に、何故そんなことが起こったのかを考えた。
やっぱり少し、くるっていたのかもしれない。戦いのストレスが一気にキラを襲い、錯乱させていたのだと。少なくとも周りの皆はそう、思っているはずだった。それでも、キラ自身は少し釈然としないものを感じている。くるうこととは逆のことが起きていて、それに身体がついていかなかった、というほうが正しく思えていた。ただ、そう思っていること自体がくるっていた証かもしれないと思えば、微かに自信がなくなってくる。
感覚の鋭くなる一瞬はいまだにあって、極力その力を使わないように今は意識もしているけれど、ふいにこぼれてしまうこともよくあった。
その瞬間を察してでもいるように、タイミングよくマルキオがいうことばがあった。
「あなたは、シードを持つ者ゆえに」
それはマルキオに出会ったばかりの頃、クライン邸で過ごしていたときにも何度か耳にしたことばだった。キラはその意味を深く考えることをせず、元宗教家ならではの哲学的に何か意味合いのあることばなのだろう、くらいに聞き流していた。ただ、少なくとも盲目の導師はキラの心の中で起きていることを知ってくれてはいるようだ、と思うことができた。

のろのろとした足取りで、マルキオの孤児院、“祈りの庭”にたどりつくと、にわかにその周りが騒然としていた。建物のまえにはいつになく、数人のアスハ家の使用人の姿があり、その中に見慣れた金髪の彼女も立っていた。いつもと違うヘリが運んできたのは、彼らだったのだ。
近づくキラに気がついた金髪が、跳ね飛ぶように駆け寄ってくる。
「キラ! ごめんっ!! わっ……わたし…!」
「…どうしたのカガリ。なんで謝るの」
カガリは今にも泣き出しそうな表情をしていた。

「──アスランが……っ」

さっと視界の色が落ちる。
カガリのひとことで、彼に何かが起きたのだと理解した。
「アスランが、何?!」
血相を変えたキラを目にしたカガリがはっとしたように一瞬固まった。自分の態度が彼を動揺させたことに気がついたのだ。
「ごめんっ……大丈夫! あ、あいつは大丈夫。でも、けがをして……」
少しばかりトーンダウンしたカガリの声を注意しながら聞く。嘘はいっていない。でも、大丈夫といいながら、何故彼女が心の裡でこんなにもうろたえているのかが、判らなかった。
「けがって?」
「あの……襲われて。アスハ家の関係者だったんだ。急なことで。……アスランは。わたしを庇って。銃で撃たれたんだ」
彼女らしくなく視線を外したカガリは、その表情を歪めている。
「──それでアスランは?」
「ここに連れてきた。今、中に運んで……」
言い終わらないうちにキラはカガリを放って走り出した。
室内まで駆け込むと、そこにいたラクスとカリダがはっと振り返る。
「アスランは?!」
ラクスはそっとキラに近づき、その両手を両肩に触れさせて、キラ、と呼びかけた。
「アスランは今、薬で眠っています」
──アスランは、大丈夫。静かな笑顔がそう告げているのが判り、キラは少しばかり落ち着きをとりもどした。
そのアスランを運んだらしい人間たちが奥の部屋から出てくる。カリダがそれを労って見送り、外へ出た彼らにはカガリが何かを話しかけていた。呆然とその様子を見守っていると、ラクスがふたたびキラに話しかけた。
「ごめんなさいね、キラ。お部屋が足りないので、アスランはあなたのお部屋に運んでしまいましたの」
「───え?」
「もう、お顔を見にいかれても、よろしいかと思いますわ。…眠っておりますけど」
そのことばに弾かれたように身体を動かし、キラは自分に充てがわれている部屋へと向かった。

質素な部屋のベッドに、アスランが横たわっている。その傍では医師と看護師が、医療器具の調整をしていた。作業の邪魔にならないよう、部屋の入口でキラはアスランの顔をそっと窺う。
出血がひどかったのであろうか、顔色が最悪だった。眠るその表情はとても安らかには見えない。苦しさを微かに滲ませているようで、キラは心臓がぎゅっとなる。
彼の仕事は身体を張ってカガリを護ることだ。いつかこういうこともあるかもしれない、とは思っていた。だが、カガリは国民人気が高いことや、別の意味ではその若さを政敵からは侮られていることもあり、凶行のターゲットとなることは少ないと思われていた。ましてや代表首長を直接襲えるほどの距離まで近寄れる者など、そうはいないのだ。カガリ自身がその危険度の低さを知っていたからこそ、アスランをその任務に就かせていたということも知っている。
キラはぼんやりとした認識の甘さを悔やんだが、今更になって大切なカガリの傍を彼以外に任せることも考えられないというジレンマにも襲われた。

看護師は点滴を整えると、アスランの熱を測り、横にいる医師に頷いた。医師はそれを合図に部屋を出ていく。もう近寄ってもいいだろうかと考えていると、キラの気配に気がついた看護師が微笑んで「よろしいですよ」といった。アスランに歩み寄るキラの重苦しい表情を見て、何かありましたら呼んでください、と看護師も部屋を出ていく。
アスランの枕元に設置された機器からは、彼の心音を示す電子音が聞こえる。アスランが生きていることの証だった。

───アスラン。

ついさきほどひとりでいた浜辺で、アスランに会いたくないなどと感じていた自分を忘れ、目の前にいる存在を心から安堵した。
デスクの椅子を引っ張り出し、ベッドの横に付けてそこへ座る。点滴の繋がる腕にそっと触れ、その手を握った。蒼白な顔色からはありえないような温もりがじわりと伝わる。
巻かれた包帯の場所で、撃たれた箇所は肩口かあるいは、胸のあたりと見てとれた。もしかしたら、少しその位置がずれていたら危なかったのではないだろうか。キラは自分の想像にぞっと背筋を凍らせた。両手に握ったアスランの手に、祈るようにキスをする。そのまま自分の額に押し付けて、ふたたび襲ってきた動揺をやり過ごした。
───大丈夫。アスランは大丈夫。
カガリとラクスもいったことばを心の中で繰り返す。

アスランは大丈夫。生きている。

その様子を部屋の外から窺っていたカガリとラクスは、目を合わせてからドアをそっと閉めた。
「まずかったかな……キラにはまだ、ちょっと刺激が強かったかも…」
アスランをここへ連れてきた自分の判断を思ってカガリは後悔した。いつも目の前のことでいっぱいになり、その先のことまで考えが及ばない。ふだんアスランからも注意されていることを思い出し悔やんだ。
肩を落としたカガリに、大丈夫ですわ、とラクスが柔らかく応じる。
「大切なおともだちがけがをしてらしたら、以前でも同じようにうろたえたのではありませんか?」
それは、そうだろうと思う。むしろ、あのキラの姿はよい傾向なのではないか。感情が、もどってきている。

ラクスは以前、無反応だったあのキラの様子は決して感情が欠落したのではなく、その裡にあるものに身体のほうが反応しなくなっているようだ、といっていた。もしも、そのとおりだとしたら、あの狼狽は感情が素直に身体に表れているということだ。ここにいる誰だって、アスランがけがをすれば動揺する。同じことをキラがしているだけのことだ。そう思ってカガリは自分を落ちつかせた。

───だとしても、あのことはキラにはふせておかないと。

襲われたのは、カガリではなかった。
襲撃者はまちがいなくアスランに銃口を向け、二発の銃弾をその身に撃ち込んだのだ。──ザラは死に絶えろ、と叫んで。
至近距離からの襲撃は、コーディネイターである彼にも避ける暇がなかった。咄嗟に急所を外すことはしたのかもしれない。肩の骨に弾丸が食い込んで、その摘出に大きな手術を要したが、弾を受けた箇所は二つとも危険な場所からは外れていた。
……だがそれは、たまたま幸いだっただけのことだ。
カガリは自分の落ち度に自らの頭を殴りつけたい思いでいた。あのような思想をもつ者が傍にいて、何故気がつくことができなかったのかと。
病院に運ばれるあいだ、それもコーディネイターの強さゆえなのか、痛みに気を失えないアスランを見守りながら、何度もそれを詫びた。彼は痛みに呻きながらも「きみのせいじゃない」とカガリを励ましてくれた。
そして、これだけは頼む、とアスランはいった。
「キラにはいわないでくれ」
撃たれたことをいわないでおくことはできないだろう。代表首長の目の前で起きた凶行はさすがにニュースにも流れる。アスランは襲撃の理由を、キラには黙っていてくれといっているのだ。カガリは何もいわず引き受けた。
アスランはカガリの護衛を務めている。その理由を、カガリが襲われて彼がそれを庇ったのだということにすれば何も問題はない。もしかしたら、それでキラがカガリをうらめしく思うことも、少しはあるかもしれない。だが、そんなことはかまわない。アスランがそう望んでいるのだから。それに、弟の大切なともだちを傷つけたことは、事実には変わりなかったのだから。
「あの看護師は残すから。何かあればすぐに医師をヘリでよこすし…」
カガリはがっくりとしたまま、ラクスとカリダに後のことを頼んだ。
忸怩たる思いでいっぱいだったが、アスランが望む通りの報道管制も敷かねばならない。襲撃者の詳しい背景も気になった。カガリが今アスランのためにできることは、ここにとどまって彼を看病することではなかった。
「……すまないが、わたしはそろそろもどらないと…」
「お任せくださいな、カガリさん。どうぞ、こちらのことはご心配なく」
ラクスの気遣いに微笑みを返し、最後に、用意した護衛チームへと指示を残す。ここをアスランの療養地に選んだのは、そのひと気のなさだったが、それでも周囲に警戒を怠ることはできない。
中立国といえど、アスランにとってここは安全な場所ではない。それを思い知らされた事件だった。
カガリは後ろ髪を引かれながら、“祈りの庭”を後にした。